第3次最高裁決定に至るまでの都合11の裁判体(確定審3、第1次3、第2次3、第3次2)のうち3つの裁判体が無罪心証を形成した大崎事件に対し、それでも再審開始を拒んだ最高裁決定については、既に様々な批判が向けられている。

決定文は最高裁判所ウェブサイトに公開されているので、その閲読の限りで言うと、(1)確定審の既判力を金科玉条の如く祭り上げた形式的判断であり、思考停止以外の何物でもないこと、及び、(2)証拠を無視して直感的な筋書きを真実とするという、(善解するにしても)(その歪んだ価値観に基づく)結論の妥当性に固執して法律を無視するという近時の傾向性がありありとしているとの印象である。

まず(1)について。
第3次最高裁決定は要するに、死因や死亡時期に関する新鑑定が、その鑑定資料の限界故に証明力に於いて不足しているとする。なるほど新鑑定は遺体を直接見分できておらず、12枚の写真と解剖医の観察結果に依拠するしかなかったようである。しかし、(解剖医が第1次再審に於いて絞殺の所見を撤回していることはひとまず脇に置いたとしても、)12枚の色調にも限界のある写真しかないのは、昭和54年当時の捜査水準に問題があったのであり、もし現代であれば、高性能のデジタルカメラで豊富な写真撮影が可能だったはずであり、そうすると新鑑定が上記のように論難されることもなかったことになる。
捜査水準が劣っていたことは申立人の責任ではないから、捜査水準が劣っていたことを理由に証明力を論難したのでは、申立人は、捜査水準が劣っていたが故に雪冤の機会を与えられないことになる。利益原則は、このような当時の技術水準等も含めて、確定審の判断が本当に間違いないと断言できるかを審理すべきであろう。
故に、捜査水準が劣っていることのツケを申立人に転嫁するかの第3次最高裁決定は、過度に確定審の既判力を重視し,利益原則の実質を考えない思考停止に陥っていると評価せざるを得ない。

次に(2)について。
過去の開始決定は、解剖医が所見を撤回したことなどから、自白した共犯者の自白内容の証明力が失われたことも重視していた。つまり、捜査機関が、誤った解剖医の当初所見と一致する(従って虚偽と言うべき)自白をせしめたことについて、後に解剖医が所見を撤回する等して検察側立証が総崩れになった以上、自白と絞殺所見を中心とする有罪判決が動揺した、という理屈であろう。仮に申立人の主張がいまいち真実とは思われないとしても、有罪判決が総崩れになったのなら、真実は分からなくなるから、再審を開始するのが利益原則というものの筈である。
ところが第3次最高裁決定は、被害者の遺体を埋めたのが申立人と共犯者らであるとしか考えられないことにこだわり、そのような事実があるとすれば、殺害して埋めたという共犯者らの自白は信用できるという判断を示したように読める。いうまでもないが、「遺体を埋めた」ことと故意に殺害したこととは同一事象ではない。故意に殺害した場合以外でも遺体を埋めてしまうことは有り得るからである。そして、既に述べたように解剖医が所見を撤回して共犯者の自白にかかる殺害態様には法医学的な矛盾が生じている。
第3次最高裁決定は、法医学的に矛盾しようと、法医学的にみて反真実を内容とする自白が存在するという疑問があろうと、何だろうと、埋めた以上は殺害したに違いないし、共犯者らも結論を認めているのだから有罪で構わない、と評価しているようである。
素人が新聞片手に談義する分には許される議論だろうが、利益原則に基づき緻密に論理を積み上げ、より直截的に言えば確定審の証拠構造が果たして維持し得るかについて攻撃防御を尽くすべき刑事裁判に於いて、上記のように、「埋めた以上は殺害したに違いない」だろう、と言われると、匙を投げたくなる。利益原則も証拠裁判主義も、隅に押しやられ、ひたすらに、印象に基づくごり押しで、人を服役させて良いと言っているに他ならない。
君が代訴訟、一連のNHK料金、岡口判事事件など、並べていくと、今の最高裁判所は、現政権と同様、歪んだ価値観に基づき自身の価値観(法律が理念として普遍性を有することと真逆の存在である)からはみ出すものに容赦しない、しかも政策的判断を行っているようにしか思えない。

こと刑事裁判に於いては、「常識的にはAだろう」と思われたとしても、説明出来ない矛盾が残るなら、その常識は採用できないという強い決まり事があり、この決まり事を破ると、結局、その裁判官(ら)の、つまりは1人あるは3人ないし5人、最大9人の裁判体構成員の限りある「常識」が全てとなりかねないという危険が生じる。
証拠と論理を緻密に積み上げて結論を導けば、その結論の正しさは、誰の目にも検証可能であるが、証拠と論理の積み上げを無視した常識のごり押しは、その真逆である。

「たかだか」数十年しか生きておらず、その半生以上を狭い法律の世界で過ごしている裁判官「ごとき」に、真実を言い当てる常識など期待できないし、少なくとも、あらゆる裁判官にそのような常識があるとは期待できないのだから、そのような常識を当てにせず、事後検証可能な制度設計でなければならない。
だからこその手続保障であり、利益原則であり、証拠裁判主義であろう。
最高裁判所には、その基本すら最早完全に失われていることが良く分かる。

(弁護士 金岡)