某所で、刑事弁護の専門性や、国選弁護人の選択の自由を巡る議論がされていた。幾つかの方面から意見を聞かれたこともあり思うところを書いておきたい。

端緒となる発言は、「刑事弁護というのは、「私は大手法律事務所勤務予定ですが、修習を経て刑事弁護に興味を持ち、今後もできるだけ取り組みたいと思っております」という程度のものなのか」というものであったようだ。

この発言は正しいだろう。
刑事事件は高度に専門化している。
最早「誰でも出来る」という分野ではない。
捜査段階では、例えば黙秘権行使や署名押印拒否を含めた多様な選択肢を提示し、依頼者が最善の選択肢を確実に遂行できるよう支える技量が求められる。公判段階では、少なくとも類型的な証拠は確実に開示を受けてから先に進む必要がある。やらず、結果的に大過がなかったとしても、それは、たまたま通行人がいなかっただけの居眠り運転のようなものであるが、管見する限り、この程度のことでも出来ない、やらない弁護人が現に存在することは(国選私選を問わず)否定できない事実である。
国選制度に関わりたいという気持ちや刑事被疑者/被告人の人権を擁護する取り組みに真摯な気持ちがあったとしても、仕事状況が必要な技量を醸成することを許さず、片手間になるなら、手を出すべきではない。そういう意味であれば正しい発言である。

次に、議論が発展して、「全事件の85%以上を占める国選事件の依頼人にも弁護士を選ぶ権利を与えたらいい。」という指摘に至ったようだ。

国選弁護士の選択権があれば、自然、気持ちと技量を併せ持つ弁護人に事件が集まり、片手間程度や、あるいはそもそも嫌々関わっている類いは淘汰される、ということであれば、理想論としては理解できる。また、被疑者/被告人側から見たとき、よくある医療の例えのように、生きるか死ぬかの大手術に、初心者や意に沿わない医師を押しつけられてはたまらないだろう。憲法は実効的弁護を受ける権利を保障しているから、仮に技量を伴わない国選弁護人を強制すれば、それは憲法違反と言って良い事態である。
さはさりながら、選択制を導入するとなると、人気弁護士に事件が集まり、しかし一人が適切に担当できる件数には限りがある。枠を超えれば結局、第二選択、第三選択・・とならざるを得ない。全仕事を国選弁護に振り向けて経済的基盤が持つかという問題もあるだろう(例えば刑事控訴審を年間40件、受任したとして、国選報酬はせいぜい4~500万円にとどまるのではないか・・実費赤字を考えると、現行制度では生活すら成り立たないだろう)。
まだしも現実的なのは(制度設計が難しいのは百も承知だが)、登録5年は単独受任が出来ないとか(左陪席はそういうものだろう)、上訴審や裁判員裁判等で資格制限を導入することだろうと思うが、こちらも、単位会にかかる制度を主催する能力はなかろう。
本気で議論するなら、大規模単位会の地域で選択制を試行的に導入し(単位会による推薦制度を少し弄るだけであるから不可能ではなかろう)、数年かけた実証実験を行うことかなとも思う(国選弁護水準は上がっても下がらないはずだ)。

話を戻すと、前記発言も、理念としての方向性には賛同できるところである。

最後に、被疑者/被告人が(望ましくない)刑事弁護を受けることを強制されているとして、その原因論を「駆け出しの弁護士の練習場」等と揶揄した点は、全部が全部、間違いとは言えないとしても、決めつけに過ぎる部分と言い過ぎがあることは否めない。
折角の議論が、本質的でないところで反発を生む舌禍と化したのは勿体ない。

(弁護士 金岡)