手続保障が刑事手続の生命線であることは論を待たないが(そして私は手続保障に相当に比重を置く立場を自負している)、体系的にまとまった勉強機会を持てないで来たため、まだまだ理解は浅学の域に止まっているのではないかと心配になる。かねてから「積ん読」状態であった掲記書籍を読んで、尚更にそう思うところである。やはり合衆国憲法まで遡った勉強を志すしかないのかも知れない。
以下、印象に残ったところを幾つか引用する。実に半世紀前に編まれた書籍であるが、色褪せるどころか予言書然としている、と思わされる。
(163頁)刑事手続では不名誉な役割を演じた不潔な人間、社会に攻撃を加えた異端者が対象なので、デュー・プロセスは常にハンディを負っている。正義感は処罰の方向へ傾斜せざるをえない。それが偽りのないところであろう(それだからこそ、後述のように、デュー・プロセスへの牽引力は、時としては度をこえたといえるほど強力なものでなければならないわけである)。
(150頁)しかし、やはりデュー・プロセスのために闘う弁護人を前提に、理論構成するという態度は維持したい。その場合わたくしの理論は、弁護士の現状を前提にするのではなく、その変革の理論であることを注意してほしい。期待される弁護像を描くことによって、それへの接近を鼓舞しているのである。
(206頁)判例も、むしろこれに反するのではないかとさえ思われる事例を「救済」するにきゅうきゅうとしているといった状態である。・・証人対質権についても、刑事訴訟法三百二十一条以下の規定は、違憲ではないといえるぎりぎりのところまで後退しており、かつては有力な違憲論さえ誘った。黙秘権についても、被告人のそれと証人のそれとの差が一般に認められているか疑問だし、実務は、共同被告人を分離して強制的に証人にするなど冒険に近いところまでやっている。
(付記1)
218頁から、職権証拠開示命令を巡る判例形成の端緒となった原決定(西尾裁判長の命令)全文が収録されている。初めて読んだが、これは貴重なものである。
(付記2)
338頁から、刑訴法328条についての議論が展開されている。
某所で議論になっていた供述存在により証明力を係争することの当否について、田宮説は次のように書かれている。「検察官が自己矛盾以外の伝聞供述を提出するのは、憲法違反の疑いが濃い。その限度で、三二八条は無効になる。したがって、検察官が三二八条で提出できるのは、現実には自己矛盾の供述にかぎることになる。ところで、それなら、なぜ三二八条は自己矛盾の供述にかぎるといえないのか。一つには、前述したように、文理が許さないし、二つには、そう解すると、被告人に不利になるからである。」
(弁護士 金岡)