またしても頂き物の紹介である。札幌地裁2023年4月18日判決、過失運転致傷罪に対し無罪を言い渡した案件である。なお、確定したとのこと。

この事案は、当初の取り調べで「私が悪いと分かりました」という自白がとられ、弁護人が「準立会」をした取り調べでも「過失運転致傷罪になると分かりました」という言ってもいない一文が挿入されており、これを弁護人が助言し削除させた、という部分が比較的大きく報道された。
後に無罪になる事案で何故か自白がとられている。そればかりでなく、しれっと自白の文章が挿入されている、というのは、刑事弁護人なら誰しも「ああまたか」と思うだろうものであるが、こういう冤罪防止のために立会が必要だという認識が共有化されないのは実に不思議である。

さて、本題。
この判決は、表題記載の通り、常識的な注意義務論を展開したところが好印象であり、広く知られるべき価値があると思われる。もし「年間判決大賞」があるなら、責任無能力とした大阪高判や、袴田再審抗告審決定と並んで候補に入れても良いだろう。

事案を思い切り要約すると、日没近い時間帯に、前照灯を点けた対向車両と次々にすれ違ったあとの自動車の、手前右方向から、暗い色の服を着た人物の乗車する暗い色の自転車が横切ってきた、という案件である。細かな点を捨象すれば、どの時点で視認可能だったか、その時点で結果回避可能だったか、という争点状況である。

どの時点で視認可能だったかについて、判決は、ある地点での視認可能性については、上述のような前照灯や暗さ、暗い色などを挙げた上で、「とっさに視認することは、できたとしても不鮮明であり、困難であった」という指摘をしている。そして、実況見分では被告人自身が当該地点から視認できたとしていることについては、「事故発生を踏まえて意識的に注視することで視認できたとしても」根拠とはならない、とした。

正にその通り、であり、いかに事故を前提とした実況見分による見通し再現が危ういものかを良く理解している。「そこにある」と分かった上で「見えます」とやっても、なんの意味も無いのである。ブラインドテストとでも言おうか、あるかないか分からない状態で視認させなければ、それは最早、自白の騙取といって差し支えない。

次に、結果回避可能性である。
ある地点での結果回避可能性について、試算すると反応時間1.15秒未満でなければ衝突するという前提であるが、判決は、被告人の70代半ばという年齢に着目して「1.0秒程度を要する可能性は十分考えられる」とした上で、そうすると許容される反応の遅れは、わずか0.15秒であり「時間的余裕は少ない」とした。
一般に流布する反応速度から幅を持たせるというのは、咄嗟的な事故案件では、動揺等の心理状態を慮れば寧ろ当然のことであるが、こうもきちんと述べられているところは非常に印象が良い。
事実、本判決は、「(自分側の)車線まで進入してくる動きであることを認識・判断するために若干の時間を要することは考えられるし、その動きが意外な事態と感じられ、驚きや狼狽から反応が遅れることもあり得る」としている。
なお、この判決は、「注視」についても常識的な理解を示し、曰く、「右方を注視し、急制動の措置を取ることができたと考えられなくもない。しかし・・(本件道路状況を見るに)特に左方を注意して運転するのが自然な道路状況であった。また、自動車運転者にとって最優先されるべき前方注視箇所は道路前方の進行車線上であり・・」としている。検察官はしばしば、結果論から「注視注視」と連呼するが、現実的な注意義務の議論においては、そのような結果論的理想論では無く、自然な運転の流れにおける「注視」を問題とすべきは当然であろう。

以上のように、この判決は、陥りがちな形式論を廃し、非常に分かり易い、文字通り現実的な議論を行っている。優れた判決だと思われる。

なお、このような判断を導く上で、弁護人の弁論の工夫にも光が当てられるべきかも知れない。弁論は、(非対象事件であるが)パワポプレゼン方式で行われており、あるスライドにはたった二言、「〇運転者の視点   神の視点」(神の視点の方に×はないが、要するにそういうことである)と書かれているだけであったりする(おまけにそのスライドは2回も登場する)。
日頃、緻密に論理を積み上げることこそ至上と考えている身には、多分、真似は出来ないのだろうけど、今時はそういうものなのだろうかと慨嘆せざるを得なかった。

(弁護士 金岡)