「環境と正義」のことは、本欄2021年4月14日でも取り上げたことがある。
頭の栄養剤として拝読するのみであるが、心惹かれるものがあったので紹介したい。

2022年度論文集は、「特集 司法は、気候危機にどう向き合うか」として、寄稿含め9論文が掲載されている。

杉田論文は、CO2排出規制を司る法令規定が存在しない中で、司法手続を利用してどのような争い方が可能かを詳細に検討し、行政訴訟における原告適格を否定した裁判所の理由付け「地球温暖化による被害を受けるのは(大量排出源である)発電所の周辺住民に限られず、被害を受けない利益は不特定多数の者が等しく享受するもので個別性が認められない」としたことを理由になっていないと批判している。確かに、この理由からすれば誰でも原告適格を肯定する方向に進むはずであり、不可解な判示である。国際的には、大量排出源に対するCO2排出削減を命じる判決は相次いでいるとのことで、この種の裁判の我が国の司法の立ち後れが目立つようである(先日来の「後進性」の記事もそうだが、何か一つでも「日本の刑事司法が世界的に見ても先進的だ」と言える部分はあるのだろうか?ないとしたら理由を真剣に考えなければならないだろう)。

一原論文は、気候変動訴訟の国際司法の状況を網羅的に取り上げている。
平たく纏めると、訴訟対象の拡大、人権法分野への波及、国際文書における明文化とまとめられるとのことである。環境問題に人権法を応用して取り組むことは、先進的な取り組み程度にしか理解していなかったが、それが標準化するというのも素晴らしい進歩である。

嶋田論文では、「オーストラリアの気候変動訴訟のトレンド」が紹介され(全く知らない世界である)、高校生が環境大臣に対し「未成年の子に対する温室効果ガスの排出に関する将来の損害を生じさせないよう注意する善管注意義務」を負うとして、同義務に基づき大量排出源への許認可(石炭事業の延長許可)を行わないよう求める裁判に言及されている。そういえば最近、米国モンタナ州の類似の画期的判決(清浄で健康な環境に対する権利を守る観点から、化石燃料活動の許可を拒否する裁量権がモンタナ州にあった等と認めた)が報じられており、なるほど世界は元気だと思わされる。

あらゆる法領域に共通したことと思うが、依頼者の需要を法的表現に置き換えて主張するのが弁護士の役割である。その意味で、今回の特集は琴線に触れるものであった。

(弁護士 金岡)