性風俗業者を新型コロナ対策の給付金の支給対象外としたことの是非が問われた訴訟の東京高裁判決が、本年10月5日、あったという。
まだ報道でしか見られていない(そして報道による判決の要約は往々にして不正確以下のことがある)ので、論評する時期ではないが、報道によれば、かかる産業を風営法の届け出制下においた法意を「国が許可という形で公的に認知するのは相当ではない、との観点を踏まえたもの」とし、そのような属性のかかる産業に対する給付金を行うことが「納税者である国民の理解を得るのが困難と国が判断したことは合理性がある」とし、「職業を狙い撃ちにして差別するようなことを目的にしたものではない」等として、憲法14条違反を否定したとされている。

報道によれば、弁護団は、①性風俗産業への国民の意識は既に変化している、という主張と、②不当な差別であること、を主張していたようであり、私は、①については余り本質的な問題ではなく、それがどうあれ、②について不当な差別だという印象を持つ。
届け出制だろうが許可制だろうが、合法に行える性風俗産業を、給付金の対象にすることが国民的理解を得られない「一段、低いもの」に決め付けることは許されまい。それ自体が差別である。もし仮に、そのような国民的理解があるのだとしても、それを是正する(許容しない)のが、得に民主的多数を占められない人権を擁護すべき、司法の役割では無いか。
前記報道にかかる部分は、従って、次のように書き換えられるべきだろう。
「なるほど、国民の多数は、性風俗産業を公的に認知すべきでないと考えており、従って給付金の対象とすることは不相当と考えているようである。しかし、職業に貴賎はないのであり、このような偏見、差別を前提にすること自体が誤りである。このような職業に対する偏見、差別を許容するならば、人のなりたがらない職種は、民主的過程において常に少数者として不利益を受け、その不利益は構造化、固定化する結果、憲法13条、憲法14条に反した状態を許容することになる。」

公金により守られるべき職業生活か否か、という問題に対し、国民の多数派の意見なるものを援用し、多数派によれば守られなくて良い職業生活がある、という論法は、憲法の基本的理解を欠いている。その立法目的が職業差別かどうかは、尚更どうでもよいことである。世の中が大政翼賛的になる時、最も質が悪いのは善意による弾圧だということくらい、東京高裁の裁判官になる前に学んでおくべきだろう。

と、ここまで書いて、そういえば第1審判決を死蔵していたことを思い出した。
第1審判決(東京地判2022年6月30日)を改めて読んだが、ほぼ、上記報道にかかる要約と同様であった。
本欄の問題意識との関係では、「なお、これまでに説示するところは、飽くまで公的資金によって事業の継続を下支えするという本件各給付金について、限られた財源を効率的に活用する等の観点から、当該事業の特徴や内容に基づく許容がされ得ることをいうものにすぎない」「当該個人の職業に基づく差別が許容されるものではないことはいうまでもない」という(判決20頁)。

しかし、既述の通り、公的に認知すべきでない、公金により下支えすべきでない職業という烙印を押すことで、その職業に従事する人々の生きがいや尊厳を否定していることに変わりは無く、それを多数意見の名の下に許すという感覚自体が狂っている、と思わざるを得ない。

(弁護士 金岡)