刑事法の分野で、責任能力が、事理弁識能力と行動制御能力の双方を要素とすることは何ら疑問無く受け容れられている。
では民事法の分野で、意思能力を問題とする時、事理弁識能力が要求されるのは当然として、行動制御能力についてはどうなのか、というのが本稿の話題である。
昨年受任した事案であるが、要約すると、「双極性障害の既往のあるA氏が、N月、躁転して、被害妄想や粗暴的言動、万能感に基づく行動、経済的奔逸行動を来たし、その後の数ヶ月にわたり、何百万円もする宝飾品類、千数百万円級の車両、数千万円の不動産を立て続けに購入し、勿論、資力が無いため決済不能に陥り、違約金請求を受けた」というものである。A氏は、N+4月、措置入院となり、その後、医療保護入院を経て、退院まで半年以上を要した。
さて、こういう事案において、A氏は、主として万能感に基づく経済的奔逸行動に出ていたと思われるが、それが自分の欲しい高級品である、という程度に事理弁識出来たとは言えるのであり、意思能力を「事理を弁識する能力であり,おおよそ7歳から10歳程度の知的な判断力であると考えられる」(東京地判2006年2月6日)のように定義するならば、意思能力には問題ない、と判断されかねない。
他方で、行動制御能力に目を向けると、資力が無いことが分かっていても欲しいものは買う、何とかなるに違いないという根拠の無い思考で行動しているのだから、著しく減弱していることは明らかであり、意思能力に行動制御能力の要素も要求するとなれば、意思無能力の匂いがする、と考えられる。
上記事案では、司法精神鑑定に秀でた精神科医に鑑定をお願いし、その結論は「本人は、N月ころから契約等に関する判断能力を減弱させ、遅くともN+1月ころにはその能力が喪失したといっていい程度にまで低下した」「契約等を行うのにはきわめて不適切な精神状態であった」という結果であった。
意思能力について、行動制御能力の要素を問題とする定義付けがしづらい以上、鑑定事項の定め方としては上記のような問いかけになり、回答になるのは、現状致し方ない。
刑事分野と異なり、取引相手の保護の要請が働くため、責任能力と同じような要素を考慮する一辺倒では民事分野には通用しないのかも知れないが、他方、行動制御能力の要素を考慮しないことはいかにも不合理である。払えないと分かっていても買い漁る行動をやめられない病気なら、効果帰属は酷という価値判断は受け容れられやすかろう。
先例として、大河原簡裁1985年9月5日というものがあり、同事案は、不必要な大量の品物を買い込む奇行が見られたため近隣商店では最早相手にされていなかった同事件被告において、約35万円の宝飾品の購入契約を締結したことに関し、意思無能力とみるには十分ではないものの、「通常人に比し、減弱した精神状態にあったこと」、販売店に実害がないこと、販売店が途中で同事件被告の精神上の問題について同事件被告の配偶者から説明を受けたこと等を踏まえて、信義則上、請求を排斥する判断をしたものがあるが、一つの判断ではあろう。
意思能力については、今般の民法改正でも大いに議論された結果、定義付けすら見送られた経過があり、今後も、引き続き、定義付けからの議論を続けるしかない。責任能力に関心を持つものとして、民事法分野で行動制御能力の要素を問題とすることが少なくとも見当たる議論においては一般的とは言えないことは、学問的に興味深い現象に感じると共に、刑事法分野の精緻な議論を可能な限り民事法分野に逆輸入することが必要なのではないかと思われた。
本件の解決は、数件の訴訟全てで、割合的な解決を行う和解が成立した。
協力をお願いした精神科医からは「だから民事事件の鑑定は・・」と言われそうである。
否応なく判決に至る刑事事件と異なり、民事事件は和解による幕引きが圧倒的に多く、本件のように新しい鑑定が判決の中で扱われ、先例となる機会は多くない。
本件もまたそのようになってしまったのは、学問的好奇心や、協力をお願いした精神科医に対しては、残念に思うところであるが、安全策で依頼者の利益を守るという立場上、そうそう冒険も出来ないのは当然である。
(弁護士 金岡)