(はじめに)
弾劾裁判所2021年(訴)第1号事件、2024年4月3日判決の要旨がウェブ上に公開されていたので、読んでみた。
感想としては、大きく3点。
第一に、羊頭狗肉と言うべき、規範と当て嵌めの乖離。
第二に、行為責任ではなく結果責任の羅列。
第三に、比例原則という当然の視点の欠如。
言いたいことは沢山あるが、取り敢えず上記に絞って紹介したい。

(1点目:羊頭狗肉)

1.例えば弾劾事由をなす「非行」の定義について、一般国民の裁判に対する信頼の必要性を強調して「一般国民の尊敬と信頼を集めるに足りる品位を辱める行為」かどうかで判断すると説明されている(要旨30頁)。

ところが肝心の当て嵌めでは、「刑事事件投稿等行為群」に関して、被訴追者に「読者の性的好奇心に訴えかけて、興味本位で刑事事件判決を閲読するものを誘引する意図があったもの」ではなくとも、「遺族からすれば、『性的好奇心に訴えかけて、興味本位で刑事事件判決を閲読するものを誘引』していると受け止めることももっともであり、事情を知らない一般人の中にもそのように受け止める者がいたとしても不思議ではない」(要旨31頁)として、優に非行である、という結論になっている。

一般国民の尊敬と信頼を裏切ったかを図るのに、遺族や、ごく一部の異なる感受性の持ち主を基準として、その人達が傷つくようなことをしたから非行だ、というのは、当て嵌めとして成立していないように読める。

2.同じく「犬事件投稿行為群」は輪をかけてひどい。
曰く「個別的にみれば、犬事件の原告による民事訴訟提起を一方的に不当とする認識ないし評価を示したとまでは認められず、その社会的評価を不当におとしめたとも言えない」が、「全体的に見れば、当事者を傷つけたものと認められることや、被訴追者の意図を実現する表現としては他に選び得る手段もあったことなどの問題があった」から非行だ、というのである。

一つ一つは非行ではないが、全体として観察すると手段の選択に少々、問題があったというだけで、「一般国民の尊敬と信頼を集めるに足りる品位を辱める行為」になる、というのは論理の飛躍どころか全く理解が追いつかない。

3.もう一つ例を取ると、「著しい」非行かどうかの議論において、身分に直結する重要な作業になるから的確を期す必要があるとして、結論的に「国民の信託に背反したか」基準が持ち出されたくだり(要旨38頁)で、他方の権利利益として裁判官の表現の自由への留意の必要性が謳われるのであるが(要旨39頁)、その議論の顛末は、「表現の自由を行使する手段としてSNSを利用する場合には、その危険性を踏まえて他者を傷つけないように配慮すべき」であったから裁判官による表現の自由の行使手段として甚だ問題があった、というものである。

SNSは、基本的に個人的な日記であり、読みたい人は読めば良いし、読みたくない人は読まなければ良く、職業を離れて自由闊達に論じるもよし、少々どぎつく毒付くのもそれはそれで一興、というように捉えると、SNSという表現方法を選択することの自由も勘案されるべきであるが(私生活上でも品位を求められるのは弁護士も同様であるが、だからといって、法廷に提出する書面と個人的な日記とを同じように扱うはずもない)、ここでは、そういう観点はなく、結果として傷つけた以上、方法論に問題があったから、つまるところ著しい非行だという、中身がスカスカの議論しか展開されていない。

4.要旨29頁以下が、「著しい」「非行」に関する議論と当て嵌めであるが、口では、重要な問題である、慎重にやらなければならないと言いつつ、(規範も大概であるが)遺族を傷つけ、一部国民にも同様の印象を与えるから、けしからん、といっているだけの、羊頭狗肉としか言いようのないものであった(気合いを入れて読み始めたが、途中でげんなりしたというのが偽らざる所である)。

(2点目:結果責任の羅列)

この点は主として上記で指摘したところと重なるので、簡略にとどめるが、どのような議論も、つまるところ「真意はどうあれ、結果として遺族を傷つけた。おわり。」という論調なのには閉口した。
象徴的なのは前記1項で引用した部分であろうか。
被訴追者に、性的好奇心に訴えかけて読者を誘引する目的がなかったとしても、遺族がそう受け止めるのは尤もだし、同じように感じる人もいるだろう、というのは、悪くしても、意想外の経緯を辿った不注意があると言っているだけであるのに、どうして一足飛びに、司法に対する国民の信頼を損なった、ということになるのだろうか。

そもそも論としていえば、「刑事事件投稿等行為群」の中でも上記のように批判されている部分の投稿は、きちんと最高裁ウェブサイトの出典を明示して、その上で、ある意味でSNSの場の雰囲気にそぐう紹介文をつけたというだけの話である(この事実は要旨30頁で認定されている)。
誰もに出典を確認する作業を期待できないとしても、最高裁ウェブサイトという確かな出典を明示した以上、(弁えのある人は出典を確認するだろうとの期待を裏切る)意想外の経緯を辿った不注意の責任がどれほどのものかと思うが、そのような行為責任ではなく、結果的に傷つけたから非行だ、の繰り返しでは、何の説得力も無い。

(3点目:比例原則という視点がない)

制裁は目的達成に見合った最小限度でなければならない。
罷免判決は、裁判官の身分を失い、法曹資格も失い、退職金も失うという、幾重にも過酷な制裁を科すものであるから、本当にそれしかないと言うときに初めて許容されようところ、本判決では、これを真っ向から否定しているようである。

弁護団が比例原則の観点を指摘したことに対しては、「不利益処分との均衡は一定程度考慮すべき」として、そもそも「一定程度」しか均衡を考慮しないという、少々驚きの判示をした上で、「より厳格な倫理規範が求められる(から)弁護士の懲戒事由と必ずしも同列に論じる必要は無い」(要旨42頁)として議論を打ち切り、それ以上に、「一定程度」の均衡が保たれているかを検討した形跡がない。

また、被訴追者が裁判官の再任を希望しないとしたこと、つまり仮に被訴追者が裁判官として不適格であるとしても、裁判官職から離れて法曹をやる分には構わないのではないかという見地からの比例原則の考慮についても、「訴追以降の事情だから考慮しない」と明言した(要旨38頁)。

以上は比例原則の欠如であり、この判決が憲法に照らして許容し得ないものであることを明らかにしていると考える。
・・これが終審であるという特別裁判所の恐ろしさをまざまざと見せつけられる思いである。比例原則をまともに理解しない国会議員(国会議員がどれほど憲法に熟達しているかは、これを担保する試験制度もなく測る術がない以上、疑わしい)にあらゆるものを剥奪され、それを是正させる手段がないと言うことを、憲法は許容するのだろうか。

(結論)
裁判官のあるべき身分保障、裁判官のあるべき市民的自由、比例原則など、思考を巡らせるに値する事件であったのに、途中で辟易するほど、中身のない判決であった。
口では慎重にと言いつつ、結論は全て、真意がどうあれ傷つけたことはけしからん、というだけである。裁判官職を辞するだけでは足りず法曹資格までの全てを失わせるほど重大な結果を来したというなら、不注意か故意かは関係なくなる場合もあるだろうが、それこそ、刑法犯が確定するような顕著な場合以外はそのような結論は採り得ないと考える(そういえば本判決は、過去に例を見ない事件だから過去の弾劾裁判の量定例は比較対象にならないとしたが、これもまた、結果責任を押しつけるだけの愚物であろう)。
事案の性質上、広く議論されるべき案件には違いないのだが、判決そのものには全く取り上げる価値が見出せない程度という感想である。

(弁護士 金岡)