園児バス置き去り事件判決報道(静岡地判2024年7月4日)は、現在、季刊刑事弁護において量刑問題研究を寄稿している立場としても、また刑事弁護実務家としても、関心を抱くところである。事件の具体的中身は報道で垣間見る程度にしか知らないし、判決書を入手するあてもないので、雑感程度に書きとどめておきたい。

報道によれば、園長の実刑判決理由は、①被害者の苦しみは想像に絶する等の結果の重大性、②安全管理計画も策定しなかった責任感の欠如、③(臨時の運転だったが)運転手として人数確認する方法も知らず補助者が確認したと思い込むなど過失は著しい、④安全意識の欠如が甚だしい、というようなもののようである。
そして、裁判長が声を詰まらせながら「福岡の事件以前にも同じことが起きているが、今回も起こってしまいました」「それは子どもの命を守る大切さを私たちが忘れていたからです」等と説諭した、ということも報道されている。

さて、私の関心事は、このように一種の社会現象を巻き起こし、言葉を選ばず言えば被告人が袋だたきに遭うような場合に、司法の手続面を含む量刑判断が正常に機能するだろうか?というところにある。かつて本欄で取り上げた、京アニ事件子守歌事件などは、完全に常軌を逸した好例であるが、そのような事態はしょっちゅう、繰り返される。
平たく言えば、社会現象化したばかりに、先例を逸脱した手続や量刑結果であることは違法だろうと、考えている。量刑の傾向性を含め、社会の変化に伴い緩やかに変動していくことは当然である。しかし、激変するのはおかしいし、ある事例だけが突出するのも尚更に宜しくない。本件も、どうにもその匂いが強い。

上記①は、避けて通れない論点であるが、1名の死亡は1名の死亡で、それ以上でもそれ以下でもないと扱うしかない(これは司法が「冷たい箱」だからではなく、そうでなければ量刑の公平性が保たれないからである)。即死の事案と、苦しんで亡くなった事案とで、被告人が前者を意図して引き起こしたような特段の事情がなければ、その点では量刑に差異が生じるのはおかしいだろうし、前途のある幼児と、壮年の男性とで、生命の重さに違いがあるようにも思われない。
上記②は、安全管理計画策定義務が制定されたのは本件後の話であり、勿論、安全管理計画策定をしておいた方が望ましいのは当然だが、業界標準でなかったことをしておかなかったから怪しからんというのは筋が通らない(社会現象化による結果責任の押しつけは、これまた、良く見受ける事象である)。
上記③も、私の価値観では過失を軽く評価する方向に働く。送迎専従の人が、それ相応に求められる注意義務を怠るのが強い非難に値するのは分かるが、臨時代行の人がなにも知らないから怪しからん、というのは筋が通っているようには思えない(何も知らないのに軽率に手出しをしたことは非難可能だとしても、安易と言うだけであるから、責任非難には限度があるだろう)。

とまあ、報道を眺めてこういうことを考えていたのだが、確かこういう悩みを正面から検討した論文があったはずと探してみて、量刑実務体系1、132頁以下にたどり着いた。
3歳の幼児を轢下し死亡させた業務上過失致死(当時)事案である。
執行猶予を付する理由を遺族になんとか伝えようと苦心して判決理由を起案した、という解説が付されているので、御関心の向きは御覧になると良いと思うが、要は、慎重な安全確認義務を課せられていたのに不十分な安全確認で発車した安易な運転態度は厳しく非難されるべきと前置きした上で、更に被害児童はもちろん被害者遺族の心情を思うと言葉もないとした上で、刑法の責任主義の原則から、故意犯と過失犯とは自ずから差異があり、強い非難を加えることが出来ない類型性を踏まえ、直ちに実刑に処すべきかは別論だとして、更に詳細に、過失の個々の要素に慎重な評価を加え、強い非難が本当に可能なのかを子細に検討した、という案配である。

これとの対比においても、(限られた資料から雑感を述べているだけなので、本件①~③のような検討が前提を欠いて的外れと言うこともあるかも知れないし、ないかも知れないのだけれども、)報道から現れている要素を見るに付け、慎重な検討よりは、社会現象に押し流された情緒的な評価がされているのではないか、どこまでいっても過失犯は過失犯で、現行法上、強い非難が加えられないところから出発しなければならないという、公正な量刑判断が見失われているのではないか、と思う。

裁判長の説諭も、一部切り取られているのだろうか、よく分からないが、情緒的であって、冷静、公正な判断を見失っている感が強い。本件は本当に、子どもの命の大切さを忘れたことに起因する事件なのだろうか。全くそうは思われず(園長側は、次の予定があって焦っていた趣旨の説明をしているようだが、そうだとすれば、正に、日々の忙しさの中で、ついうっかりという、典型的な軽過失に映る)、裁判所も、社会現象に押し流され、被害感情と一体化しているように見える。

(弁護士 金岡)