東京電力福島第1原発事故での国の賠償責任を否定した最高裁の判断に関わった判事らに関し、有志弁護士らが、裁判官訴追委員会に訴追するよう請求したことが報じられている。必要な法令解釈を怠ったまま国の責任を不問に付したことを批判し、裁判官の良心と公正らしさを問うもの、とのことである。実質的には内容的不服をいうものであろう。
確かに最高裁の判断に憤懣やる方のない思いをしたことは数知れずあり、およそ正当性を示そうともせず門前払いする権力組織に対し、考え得るあらゆる手段を用いて迫りたいという気持ちは十分に理解できる。なにせ司法の親玉の機能不全であり、裁判所に迫っても無意味であるからには、民意で以て・・というところだろうか。
しかし、これは極めて危険な途を開きかねない悪手であり、反対せざるを得ない。
第一に、裁判官の独立は憲法に保障された、制度的保障であり、これを民意を以て覆す発想は反憲法的に映る。極めて例外的にのみ許容されるものであって、一裁判の内容に不服であるからといって軽々に用いるべき手段ではない。
第二に、あるべき司法判断が常に「大衆受けする」とは思われない。特に私が関わる刑事司法の領域はそうであり、黙秘権、利益原則、責任無能力といった、法的には当然の装置が、「民意」とやらには憎悪の対象になりかねない場合はままある。
よしんば、原発事故問題では民意を追い風に歪んだ司法判断を是正せしめたとして、同じ方法論でもって、黙秘権、利益原則、責任無能力などが攻撃対象になる危険を、どう考えているのだろうか。これは極めて危険な途を開きかねない。
第三に、岡口事件の弾劾裁判所の審理、判決は、お世辞にもまともなものではなかったと思うが、その前提に立てば、尚更に上記の危険は増大する。安易に、情緒的な民意で以て司法判断が覆らないようにする制度的保障が台無しになりかねない。
今からでも、このような動きは取り下げるべきだと思う。特に司法判断の内容に対する不服は、やはり、地道に、証拠と論理を積み上げて、徐々にでも最高裁に迫っていく、ということに徹すべきである。それで救われない現在の当事者がいることは座視できないが、今回ばかりは代償が大きすぎる。
(弁護士 金岡)