「僕ちゃん」発言事件とは、取調べにおける検察官の言動そのものが国家賠償に問われた事件として報じられ、注目を集めた東京地判2024年7月18日のことである。国側敗訴部分は国側控訴無く確定したとのことである。

近時、このような国家賠償に関する報道が相次ぎ、また、大阪高裁が取調べにおける検察官の言動そのものに対し付審判請求を認める決定をするなど、最早、偶然とは言い難い流れが生じている。漸く検察庁の公権力の濫用や身内庇いに司法介入が行われるとすれば心強い(同じ法曹としては、そうまでしなければ自浄できないことに情けなさも感じるが)ことである。
私も、「歴史に残すべき無罪判決」において報じたとおり、客観証拠を隠して平然と、これに反する有罪論告を行い、差戻前第1審裁判所を騙し仰せた平間文啓検察官に対する告訴案件が「罪とならず」とされた件について、検察審査会への申立を行ったところであり、この流れに更に一事例を追加したいものである。

さて本題。
「僕ちゃん事件」東京地判は、取調べにおける検察官の言動そのものに人格権侵害を認めて国賠請求を認容した、というところだけを切り取れば良い判決に聞こえるが、判決全部を読むと、とてもとても、褒められたものではない。寧ろダメな部類の判決である。
従って、さほど取り上げる気にもならなかったのではあるが、近時の動きに鑑み、取り上げるだけは取り上げようと思った次第である。

原告側の主張は、①黙秘権行使意思を明確にしてからも50時間以上の取り調べを行ったこと、更に説得の限度を超えた人格非難等による黙秘権侵害、②弁護人攻撃を行ったことによる弁護人依頼権侵害、③人格非難等による人格権侵害、と纏められている。
これに対し国側は、「時に厳しい口調で迫ることもやむを得ない」とか、反省悔悟を迫るものや真相究明目的であった、全体としてみれば社会通念上相当の範囲を逸脱していないなどと反論した。

このような国側の反論は、実に黴の生えた、旧態依然たるものであり、未だにこのような主張を恥ずかしげも無く垂れ流すことに、おぞましさを感じる。
黙秘権を行使している被疑者に対し、一方的に結論を決め付けて厳しい口調で反省悔悟を迫ることが正しいと信じ込んでいること自体が、もはや異常だと言うことに、何時になったら気付けるのだろうか?と思う。

そもそも、黙秘権を行使している者に対し延々と発問を続けることが、黙秘権保障と相容れないことについては、例えば城丸君事件札幌高判が「もともと弁護人は,被告人には黙秘権を行使する意思があるとして,被告人質問を実施することに反対していたのである。もとより,そのような状況の下であっても,被告人質問を実施すること自体を不当ということはできないけれども,実際に被告人質問を実施してみて被告人が明確に黙秘権を行使する意思を示しているにもかかわらず,延々と質問を続けるなどということはそれ自体被告人の黙秘権の行使を危うくするものであり疑問を感じざるを得ない。」と指摘するなどし、現代の法廷に於いて、包括的黙秘権行使をしている被告人に対し、裁判所が、検察官に発問すら許さない訴訟指揮が一般化している。
私の過去5年10年を振り返って、最悪の裁判官でも「7発問」くらいで諦めたし、大方の裁判官は、被告人を証言台まで呼び出すこともなく、何かしらの方法で包括的黙秘権行使の意思確認をして終わり、であった。

従って、前記のような国側の主張に対し、いまや裁判所は、一蹴しても良いだけの弁えを獲得していたはずであるが・・今回の東京地判はそうではなかった。

曰く、「(刑訴法198条1項本文は・・)出頭し、滞留する義務があると解することが、直ちに被疑者からその意思に反して供述することを拒否する事由を奪うことを意味するものではないことは明らかである。そのため・・(包括的黙秘権行使意思の表明後も)出頭、滞留させ、その取調べを継続したとしても、そのこと自体をもって、憲法及び刑訴法が保障する黙秘権を侵害するものということはできない」前掲東京地判の判決12頁、なお裁判長は貝阿彌亮裁判官である)。

黴の生えた判決であり、いまの刑事裁判実務に全く通用しない考え方だと思う。
包括的黙秘権行使の意思が確認されているのに、50時間以上、取調室に縛り付けて発問を続けることが「拷問まがい」だとは思わないのだろうか。一度、そういう目に遭ってみることをお薦めしたい。

東京地裁判決の、話にならない程度の低さは、これに止まるものではなく、というよりも判決の大部分が辟易する内容である。幾つか、参照してみよう。

例えば、原告が水を飲みに居室に戻りたいと申し出たことを認めなかった件について、裁判所は「長時間が経過していたり、原告に水分摂取について特別の配慮を要する健康上の理由があるなど、特に原告の申出を認めるべき事情があったとはうかがわれない」等として、不法行為性を否定した(判決20頁)。
特別な事情がなければ、水を飲む自由すらない、という発想は、被疑者という身分に対する侮蔑、蔑視があることを窺わせる。裁判所は、「ちょっと水でも飲むかな」という気持ちになった時に、「健康上の理由もないのに水を飲むな」と制止される風土なのだろうか。そうでなければ、被疑者にだけそれを押しつける裁判所の発想、人間性に問題があるというべきだろう。

また例えば、原告が取調状況報告書への署名指印を拒否したことについて、検察官が、要旨「皆さん署名している。弁護士だろ、ルール守って下さいよ。」などと発言したことについても、裁判所は、「被疑者に何らかの不利益をもたらすとは考えがたいことからすれば、川村検察官において、・・原告の対応が合理性を欠く旨を指摘したりすることには、相応の理由がある」として擁護している(判決22頁)。
ここでも、被疑者を下に見て、何かしらの作為を義務付けることは当然である、不合理な行為を非難することも問題ない、という裁判所の発想、人間性における問題性が垣間見える。

馬鹿馬鹿しいので、あと一つだけ。
川村検察官が「普通はそしたら遺族の人にも悪いことをしたと、弁護士としてはそれはやっちゃいかんかったと・・すいませんでしたってね、いうのがあたりまえなのに、いや黙秘ですと。そりゃいかる(怒る)でしょう。・・弁護士じゃないのかって」などと、要するに事件被害者の感情を持ちだして、謝罪するのが当然だと迫った下りであるが、これに対しても裁判所は、「真実を供述して遺族にも謝罪をすべきであるとの見解を述べる趣旨の発言といえ、・・」として、社会通念上相当の範囲にあると擁護している(判決22頁)。
被害者感情を持ちだして謝罪を強要したり、動揺を誘うことが、典型的な自白強要手段だと言うことすら、分かっていない裁判官がいるとは驚きである。
かの仁保事件では、「仏の気持ち」などと自白を迫ったことが有名であるが、仏の気持ちだろうと被害者の気持ちだろうと、精神攻撃して供述を得ようということ自体が、認められてはならない。

とまあ、幾つか取り上げてみたが、今回の東京地判がひどい内容であることは、現代の法律家には凡そ明らかであると思う。
原告側が控訴しているのは当然であり、このような時代錯誤も甚だしい判決を生き残らせてはならない。

(弁護士 金岡)