本年11月12日の毎日新聞朝刊に対照的な投稿が掲載された。
一方は一般の方の投書欄への投書で、要約すると、刑罰の上限をなくし刑罰を倍加させ、計画的殺人については被害者1名で死刑を適用すれば幸せな国になる、というもの。他方は国立精神神経医療研の松本先生のコラムで、薬物依存に対する刑罰について論じ、「罰の痛みには限界がある」「迷う孤独な薬物依存者」「迷いを希望に変えるのは治療であって、たぶん罰ではない」とするものである。
(敢えて薬物依存に議論を特化させなくても一向に差し支えないのだが)もとより私は、後者に大いに賛同する。少なくとも刑事弁護に携わっていれば、その立場に置かれたことから、ある意味で必然的に犯罪に導かれていったと感じる案件は多くある。そのような立場(環境)を変えなければ、再犯のおそれは残る。なるほど、叩けば躾けられる、という古典的な考え方から、刑罰を重くすれば再犯を抑止しやすくなる、という考え方は馴染みやすいのかもしれない。しかし、依存という病気に罹患している場合はもちろん、環境面であっても、松本氏の表現を借りれば「罰の痛み」ではどうにもならない領域がある。
果たして上記投書欄の投書の主は、裁判員になったとき、後者のような考え方も踏まえて判断されるのだろうか。法曹三者(特に弁護人側)がきちんと説得的な説明を打ち出せればよいが、常に理想的な弁護活動が行われるとは限らない。理想的な弁護活動が打ち出されても、御自身の考えに染まって容易に抜け出せないかもしれない。
常々、量刑判断を裁判員に任せる事には強く反対しているのだが、まぁ裁判官裁判でも(もっと言えば刑法典自体に)、科学性は相当、欠如している、と思わせられる。二度目だから重く、とか、厳しい制裁を、といったところから抜け出し、犯罪要因を分析、対策を講じ、科学的にこれを最後にすることを目指すには、我々に何が求められているか、改めて考えさせられた。
(弁護士 金岡)