先日、検察官の不服申し立てを振り切ってなんとか保釈を得た案件があるので、この話題について書いてみたい。

1.不活発な調書裁判を指して「わが国の刑事裁判はかなり絶望的である」 と喝破されたことは夙に知られているが、身体拘束についても、「かなり絶望的」か、その一歩手前くらいと評しても良いのではないか、と思う。とりわけ、基本的に争う事件ばかりの当事務所では、否認しているから何かやらかす、否認しているから逃げるに決まっている、という、お決まりの検察意見に踊らされているのではないかとお見受けする身体拘束裁判は、引きも切らずである。

判タ松本論文は、人質司法現象こそ否定したものの、保釈の弾力的運用に向けた改善提言をされた。また、平成26年11月18日には久々に、最高裁が逆転で保釈を許可した決定がされている(逆転で勾留請求を却下したものはなんとこの1年で3件である)。他方、法制審では、特に裁判所側から、身体拘束裁判は十分慎重適正に行われているという主張が激しく繰り出され、捜査段階の中間処分的な立法は見送られてしまった。

2.さて、身体拘束は、争いたい被疑者被告人にとり、非常に大きな足かせである。弁護人にとってもそうである。

現場に行けない、電子機器類を自由に利用できない、種々の調べものもできない、という、あまりに基本的な防御権すら制約されていることについて、裁判所は非常に鈍感であると思う。裁判所というより、刑事訴訟法が、というべきなのかもしれない。膨大な電話履歴を整理するのに、エクセルでも使えれば非常に効率的なものを、それすらできないとか、現場を歩いて記憶を取り戻したいと願う依頼者に対しグーグルマップを見せるくらいしか手がない(・・グーグルマップを示すことすら刑事施設側に言わせると規律秩序侵害だというのだけれども)とか、なにより事件当事者が一番熱心に調べたいであろうに弁護人に委ねざるを得ないとか、そういった現象が不当であることは、その身になってみないと分からないものか。とかく刑訴法は立ち遅れ、裁判所にも当事者本人が主体的に防御するのだからという意識は殆どないだろうと感じる。

加えて、「認めれば罰金・執行猶予」の誘惑はあまりに大きい。家族、世間体、等々。争いさえしなければすぐにでも社会復帰できるし、争って勝てるという保証もない、という中で心を挫かれることは想像に難くない(現に、某事件は、被害者供述が非常に乱れ、なにより起訴時点で微罪に罪名変更せざるを得ない程、信ぴょう性に欠けていたが、保釈が取れず、依頼者は諦めて虚偽自白するとして譲らなかった。虚偽自白に加担するわけにはいかないので辞任せざるを得なかった。)。真実冤罪なら最後まで戦えと言うのは第三者的に気楽な意見に過ぎないのである。

3.現在手元にある公判案件で、依頼者が拘束されていない事案は7件ほどある。うち2件は(いずれも根本部分で否認主張であるが)勾留請求が却下されたものであるが、おかげで時間をかけて裁判に取り組むことができ、依頼者と一緒に現地を走り回ったり実験したり証拠現物を穴のあくほど確認したり、できる。保釈案件(何れも検察官は保釈に反対した~ちなみに、知られていることだが、検察官は「不相当」と「不相当であり却下を求める」とを使い分けて裁判官に対し意向を伝えているが、こういったのもある意味、癒着でなかろうかと思う)も、依頼者が積極的に動き、いろいろと提案してきてくれるのが非常に良い。

一定数、ためにする否認を生む危険はあるにしても、だからといって、本当に争う必要のある事件の防御権を制約する理由にはならないのだから、後者を重んじ、間違っても正当な防御を断念させないよう幅広に保釈すること、そのためにも裁判所には、折に触れ、身体拘束がどれほどの防御権制約をもたらしているかを、伝えていかなければならないと思う。個別事件においてそれをするには、なにかと制約があるのも事実だが、意識改革なしには捗々しい改善は見ないだろう。

(弁護士 金岡)