標準的な議論として、在特義務付け訴訟は「非申請類型」と捉えられている。特定の事実関係の下では最早、在特を与えないことは許されず、裏返しとして処分庁には在特義務があるという局面では、被処分者に申請権があると考えることも魅力的であるが、判例上で考えられている外国人の在留の権利性との整合性が取りづらい。

そして、非申請類型において何を義務付け請求すべきかは、直截的に在留特別許可を義務付けるべきとする考え方(名古屋地決平成19年9月28日(口頭審理放棄類型)、名古屋高判平成25年5月30日(事情変更類型))、その障壁となる(と処分庁側の説明する)異議棄却裁決の撤回を義務付けるべきとする考え方、その両方を義務付けるべきとする考え方が対立している(最近の名古屋地裁行政部の考え方)。先の本欄で紹介した名古屋地判平成25年10月3日は後者に属する。

最近、国側で「流行」している主張は、「重大な損害がないから義務付け請求は不適法」というものである。少なくともこの10年の名古屋界隈で義務付け訴訟が適法に扱われていることを受けてか、新たに適法性を争うべく編み出された主張であり、そのいわんとするところは「退去強制処分が確定した時点で退去強制されるべき地位が確定するから、そのような地位にある外国人が退去強制されることは当然であり、とすれば退去強制されること自体が損害とは言えないから、義務付けをしない場合に重大な損害が生じると言うことにならない」というものである。
この理屈を考えついた人は、机の上でしか物事を考えられない人だろう。実に馬鹿馬鹿しい議論である。在特義務付けが、処分時主義の致命的な欠陥を克服する意味が強いことを踏まえると、処分時と現在とを比較し、退去強制によりどのような損害が生じるかを改めて考える必要があることは当然である。処分庁が、外国における法律婚の解消や本邦での入籍、出産といった、在留に積極に考慮される事情が生じるのを待たず強引に処分を行っている現状を踏まえると尚更である(殊更に不利な状態で在特不許の判断を行いながら、その後の柔軟な見直しを拒んでいては、人道の名が泣くというものである)。
なお、この点で、名古屋高判平成29年4月20日(藤山雅行裁判長ほか)が「時の裁量」論を展開したことは注目に値する。同判決に曰く、「裁決当時、近い将来、婚姻を成立させる見込みがなかったとは言いがたい・・これを看過したまま同申立て(※外国の法律婚解消のための離婚承認手続)の結果を待たずに本件裁決をしたことは早計と言わざるを得ず、いわゆる時の裁量を誤ったもの」とされている。事情が出そろうまで処分しない方向で裁量を狭めるか、事後的に柔軟に見直す方向で裁量を狭めるか、少なくともどちらかは必要であり(事情変更は不可避に生じ得るから、事後的救済の道は広く開かれなければならず、結局、両方とも必要だという結論が正当である)、どちらも拒否する処分庁の主張は実に非人道的である。

以上が、ここ10年の在特義務付けを巡る議論の(駆け足の)紹介である。
こと人道を巡る裁判は、小手先の理屈に拘泥してはならないし、冷たい箱であってもならない。現状に見合った司法救済が可能な理屈が確立されるべきであり、それを可能にするのは訴訟代理人が現状を十分に裁判所に顕出させることである。
「在特義務付けは不可能だから入管との交渉しかない」等という誤った理解が広まらないよう願いたい。

(弁護士 金岡)