「表現の自由は絶対的なもので、つねに多少の挑発をふくむ」のだそうだ。なんとなく突き刺さるものがあり気に留まった。

「挑発」の原語がどのようなものか、気になるし、それが向けられる先は弱者ではあるまい。しかしそれでも、そうあっても多様な言論こそ生命線だという含蓄がありそうに感じる。基準も理由も示さず、軽々に「裁判官に許容される限度」なる表現の自由の制限を行う、どこぞの大法廷判決に聞かせたい。詰まるところ、挑発というかは別にして、万人にとって全く刺激の伴わない表現行為などないのだとすれば、誰かが刺激に感じたからといって、それを理由に直ちに表現の自由を制約するわけにはいかず、制約原理に根ざした慎重な検討が必要だと思料される。これに対し、誰かが刺激を感じたことを理由に、これ幸いと、制約主体において不都合と感じる表現行為を取り締まって回ることは、実に、浅はかである。岡口判事事件大法廷判決には、このような批判が当然に妥当する、と思われたのである。

(弁護士 金岡)