少し古い話になるが、昨年12月に皇室会議の「議事概要」が公表され、その際、首相を除く出席者の発言内容が明らかにされなかったことが話題を呼んだ。
その理由は、「国民がこぞってお祝いすべきであり、(発言内容の明示は)好ましいことではない」と判断されたのだという。
「国民がこぞってお祝いすべき」は、国民の祝日法1条に登場する「ここに国民こぞって祝い」的な言葉であるが、そもそも、「祝う」ことが何故、国家に強制されなければならないのか?理解できない。なにかを祝う・祝わないは、純粋に個人の主観の問題であり、憲法19条で保障されている思想良心の自由の、内心領域における絶対的理由の保障を享受すると考えれば、国民の祝日法1条自体、違憲の疑いがある。
ましてや、「こぞってお祝いすべき」だから知る権利を制約する、よって議事概要以上は非公開です、ということが罷り通るはずもないだろう。
退位か禅譲だかは知らないが、どのみち天皇制内部のことに「祝意」を「すべき」、つまりは天皇制への賛成もっといえば礼賛を強要されて、礼賛する義務があるから知る権利を制約します、ということが憲法上正当化されると考える方がどうかしている。
10連休で、またぞろ、即位を「国民こぞって祝」うことを強要されたり、たかだかカネに塗れた運動会如きで「国を挙げて」の対応を強要されたり(この時期に首都圏に出向く用事があって、運動会のために種々の不便を味わわされたとして、それを我慢しなければならない理屈はどこから来るのだろうか。数兆円規模の予算があれば、生活保護費の切り下げだって余裕で回避できるはずだ。)、と、この種の報道を見る度に、げんなり、うんざりする。
そもそも個人的には、象徴天皇制と思想良心の自由とが同居していること自体に納得がいかない。誰かを自分の象徴として受け入れる義務があり、その限度で内心領域を侵される、ということに違和感を覚える方がおかしいのだろうか。
(弁護士 金岡)