連日あちらこちらで裁判員を特集した記事等を目にする。
刑事裁判に注目が集まるのは良いことだ。
他方、「経験してみて良かったという声が圧倒的」という指摘(滅多にできない経験をしたことを受けてのものだろうが、裏を返せば右も左も分からないまま審理に関与したと言うことだし、悪く言えば物見遊山気分で人を裁いたのかと思ってしまう)や、「市民感覚が反映されている」という指摘(それが実証されているような判決書が一つでも特定されたのだろうか・・そもそも、裁判員参加法の目的では、そんなことは求められていない)には辟易する。
閑話休題。
このほどの特集で興味をひいたのが、毎日新聞の本日付け、刑事裁判の判決書公開率が極めて低い(ないに等しい)という議論だ。名のある弁護士の中でも意見が分かれている難題であることまで具体的に指摘されている。
裁判の公開は憲法が要求する監視制度であり、かといってそうそう傍聴などできないのだから代替的に判決書の公開をすべき要請は基本的に賛同できる。「準抗告事例99」についても、愛知県弁護士会から詰まらない横槍は入ったものの、無事、生の決定文を大量に公表して検討素材に出来たところである(なお、その反動だろうか、近時の名古屋地裁の準抗告裁判は、A4一枚に収めることを目指しているかのような、異常というべき簡素化傾向にある。当事者主義に近づけるための研究書が、却って議論を拒まれる縁となる。よほど、裁判書の内容をあれこれ指弾されることがお嫌いな方々が揃っているようだと、実に残念に思う。)。
他方で、プライバシーというものにはどうしても配慮しなければならない。「忘れられる権利」が登場しているように、情報化社会に於いては一旦公開してしまえば半永久的にどこかに残り続けるだろうことを考えると(猟奇的事件や性犯罪の判決書を入手して蓄積するサイトが登場するだろうことは火を見るより明らか)、こちらも深刻である。
無罪判決ですら、「火のない所に煙は立たぬ」といわんばかりに「煙」を強調する検察官の主張が精査される結果、結論は無罪でも恰も濃い灰色のようにあれこれ書かれてしまうことが多いから、直ちに公開は是とならない。まして有罪判決となれば、尚更(間違っても、有罪犯人を晒し者にするための公開ではない)である。
以上のように考えると、事案を変えない前提で、「その関係者でなければピンと来ない」ように厳重な匿名処理を施した上で(法曹三者、鑑定人、警察官などの公的な関わりを持つ属性の匿名処理は不要であるし、監視の要請からすれば匿名処理は不適)、可能な限り公開方向とし、「誰でもピンと来る」案件(どこそこの市長とか、著名スポーツ選手とか)は、プライバシーを侵害してでも公開すべき要請が上回る場合(例えば政治犯とか)に限って公開する、公開期限は設けない、というような制度設計があるべき方向性ではなかろうか。苦情申立も制度化しておけば良かろう。
量刑データベースを手がけたときも、準抗告事例99を手がけたときも、匿名処理基準は大いに頭を悩ませながら自ら要領を作成したものだが、こういう問題こそ、裁判所任せにせず、多様な意見を踏まえて各方面に目配りした基準作りが肝要だろう。
(弁護士 金岡)