まずは余談から。
性犯罪数件について無罪判決が相次いだことに対し、抗議デモにまで発展する騒ぎとなっている。有罪にすべきだという抗議にせよ、無罪にすべきだという抗議にせよ、事案の個性も弁えず思い込みに満ちた批判(というより最早言いがかり)を力押しで展開することは、全く感心しない事象である。
裁判は、証拠と論理から検察官が立証責任を果たせるかを理性的に判断する営み以上でも以下でもなく、外野からの力任せの野次は、どちらの方向を向いているものであれ、正当なものではなかろう。
敢えて付け足すなら、大事故を起こした高齢者をどうして逮捕しないのかとか、収監手続が数ヶ月も停滞していたことが原因の筈なのに保釈の審査が甘すぎるのではないかとか、法律も弁えず感情的に騒ぎすぎだ。法律家となってから嫌と言うほど実感するが、法教育の「ほ」の字もない我が国に於いては宜なるかなとは思うが。
さて、本題。
一連の無罪判決の中で唯一(と思うが)確定した浜松支部の裁判員裁判(2019年3月19日判決、山田直之裁判長)の、冒頭陳述や論告、弁論を見る機会があった。
それで知ったのだが、この無罪判決は、検察官にも弁護人にも意想外の不意打ちの無罪判決だった、ということ。
事案は、強制性交等致傷事件であるが、要するに、口腔性交を強いて、その際に口腔内を負傷させたという事案である。
争点は、(1)口腔性交を強いたことについて反抗を著しく困難にするだけの暴行脅迫があったといえるかどうか、(2)果たして「口腔性交」と言えるまでの行為(挿入の深さ)があったといえるかどうか、(3)負傷との因果関係、であると整理されていたようである。弁護人の弁論はまさにこういう構成であったし、検察官の論告も、このような争点に向けて主張が整理されていた。
ところが、判決は、上記のような争点については基本的に検察官の主張を採用しておきながら、判決書の最後の1頁で唐突に被告人の故意について問題提起をし、被告人が、ナンパの一環としてどこまで許されるかを見定めながら行為に及んでいた合理的疑いが払拭できないとして、無罪判決に至ったのである。
形式的な理屈で言えば、検察官はあらゆる構成要件事実について立証責任を負うし、ましてや構成要件的故意のような基本的な構成要件事実について、例えそこが争われていないからといって特に言及もしないで済ませてしまうというのは怠慢である、と言える。
しかし裁判員裁判に於いては、「真に必要な争点に絞る」ことを裁判所が主導し、当事者がこれにお付き合いする限りに於いて、それ以外は争点にしないことにも暗黙の合意があると言えるだろうから、ことはそう簡単ではない。弁護人が「そこは(主要な争点でないかも知れないが)争わないとは言っていない」という姿勢で臨み、最終弁論でも(仮にほんの一言でも)争う主張を展開しているならともかく、弁護人が争点整理にお付き合いし、争点を絞り込んだと見受けられる浜松の事案で、争点で全部勝たせながらの争点以外での不意打ち無罪判決は、やはり検察官の怠慢より遙かに罪深いものと思う。
弁護人の立場からしても、この手の判決は手放しで喜べない。検察官が弁護人に不利な主張を展開せず、争点から外れたと認識していた部分で不意打ちにされ、不利益な認定をされて有罪判決を受ける不意打ち有罪判決の危険を感じざるを得ないからである。被告人のための手続保障と、検察官の当事者性とは、自ずから性質が異なるとはいえ、評議を踏まえて再度弁論に戻すような配慮なく突っ走ってしまう裁判は危険である。(そもそも過剰な争点の絞り込みに付き合うべきではないが、それは別論である)
「真に必要な争点に絞る」手続に於いて、双方が噛み合った論告弁論を提出したが、評議に於いて、それとは異なる問題提起がされ、その問題提起が結論の帰趨を左右しかねない重要性を持つ場合、裁判所は、弁論を再開し、その論点について当事者双方から意見を補充させる(場合によっては立証も補充させる)展開を選択させる義務を負う、と考えるべきであろう(弁護人が前記の通り、従たる位置付けにせよ争っている場合に、評議でそこが焦点化し、検察側がいわば反論なしの状態に陥ったとしても、検察官に補充の主張立証を許すべきでないのは当然であり、その問題とはわけが違う)。
折角確定した無罪判決ではあるが、刑事司法全体との関係で言えば、決して好ましい判決ではないと評価する。もし仮に、審理期間を変えたくないが為の暴走だったとすれば、やはり制度に欠陥があるのだ。
(弁護士 金岡)