いうまでもなくゴーン氏の元弁護人事務所への捜索が念頭にある。
現時点で、日弁連、東京弁護士会、大阪弁護士会の各批判声明が出されているし、今後も陸続と批判の声が上がろう。
弁護人には押収拒絶権があり、従って押収拒絶権を行使した場合は捜索も許されないというのが通説的な理解である。
これに対し、東京地検は「拒絶権が及ばないものがある可能性があるので捜索を行いたい」という立場から捜索を実施したと報じられている。
この東京地検の理屈の是非が問われる。
弁護人が「秘密に属する」として行使した押収拒絶権が本当に「秘密」に対して行使されたとは限らないので、「秘密に属さない押収対象があるかも知れない」から捜索は行うという理屈は、一見、尤もらしい。
しかし、その結果、「秘密かどうか」を捜査する過程で否応なく「秘密」が不可避に第三者の耳目に晒される、それもよりにもよって対立当事者の耳目に触れるという矛盾には、すぐに気付くだろう。
解説書によれば、「秘密」性は弁護人が判断し、その判断は裁判所をも拘束するとする見解があるようだが、少なくとも当該捜索押収手続内においては、そのように解さなければ上記の矛盾は克服できないと考えられる。そうであれば、押収拒絶権行使に対し「秘密」性確認のための捜索は可能だという見解は、全く間違いである。
この考えに対して、「そうすると弁護人は、依頼者の犯罪を隠すことは勿論、例えば自身が依頼者の犯罪に関与している場合に自身の犯罪も隠すことが出来るから、おかしい」という批判があり得るだろうか。
この問題を解決するには、刑訴法105条の趣旨に遡る必要がある。同条の趣旨は、「個人の秘密に属する事項を取り扱うことの多い一定の業務者について、個人の秘密に関する物の押収を拒む権利を認めることによって、社会生活上特別の意義を有するそれらの業務及びこれに秘密を託する者の信頼を保護しようとするもの」である(条解)。依頼者の秘密を取り扱う弁護士が、その秘密を守り抜けないようでは、その業務が成り立たず、ひいては依頼する側が弁護士制度を利用できなくなるという不利益に鑑み、押収により得られる捜査上の利益よりも、秘密を守り抜く利益の方が上回ると判定して、このような制度設計がなされている。従って、依頼者や、場合によっては弁護士その人の関与を隠すことが有り得るとしても、それよりも弁護士制度の存立が優位に立つという制度である以上、上記のような批判は制度設計時に当然に想定された事態に過ぎず、当たらないと言うことになる。
以上の議論を、対岸の火事とは思っていない弁護士が展開しても説得力に欠けるという向きもあろうが、国会の政府答弁でも同じことが指摘されている。
第145回国会、参議院法務委員会、第24号(平成11年8月3日)
政府委員(松尾邦弘君)
「この刑事訴訟法の規定自体も、真実の発見という一つの大きな要請とそうした特殊な職業、つまり、他人の秘密を打ち明けられましてそれによって業務を遂行する、あるいは業務の端緒がそこにあるというような、内在的にそういったものを含む職業に証言拒絶権、押収拒絶権を認める。いわば真実の発見を、その部分では義務という面からいいますと例外をつくっていくという一つの決断を刑事訴訟法の体系はしているわけでございまして、かなりぎりぎりのところの選択によって現在の法制度はでき上がっているということでございます。」
このように、政府答弁でも「かなりぎりぎりの」判断として、真実を犠牲にすることがやむを得ないという社会的合意の下に押収拒絶権が法定されたことを認めている。
真実の犠牲がやむを得ないのだから、秘密かどうかを覗き見ることが許されないことも、やむを得ないのである。
この程度のことが分からない東京地検ではあるまいが、随分と乱暴なことをしてしまったものだと思う。鍵の破壊や、同意を得ない事務所内侵入、再三に亘る退去要請の無視は、東京地検職員に触れると公務執行妨害罪による現行犯逮捕が可能になるという弱みに付け込んだ脅迫行為にして犯罪(器物損壊罪、建造物侵入罪、不退去罪)である。何れ、国賠訴訟で然るべき制裁を受けるだろうし、刑事事件化も視野に入れる必要がある。
(弁護士 金岡)