元名古屋高裁刑事第1部の裁判長であった、山口裕之氏の論文「被告人の身体拘束」(法学教室483号10頁以下)は、実に教育に悪い代物であった。教育に悪いと言うよりは、仮にも「教室」を冠する教育雑誌に掲載されたことが悪い冗談のようにしか思われない。

例えばこうである。まずは4点ばかり、引用してみる。

【①権利保釈除外事由4号について】
「具体的な虞が明らかになっていることを要するとする向きもあるようだが、正しくない。筆者の経験に照らし、そんなことが捜査・訴追側に明らかになっていることなど、まずめったにない。これを厳格に求めれば、およそ身柄など取れなくなってしまう」
「『規定がそうなっている以上、致し方ない』と言う向きもあろうが、法がどの程度のことをもって、かかる虞ありと考えているかなど、法の規定を幾ら眺めたって、出てこない。」

【②再犯の虞を裁量保釈事由において考慮すべきかについて】
「(否定説は)何の法律的根拠も無い謬見である・・当然考慮して然るべき事情というべきだ」

【③保釈許可決定を取り消した抗告審の決定を取り消した最高裁決定2例について】
「具体の判断(ママ)は、あくまでも事例判断と言うべきものであり、それを一般化するようなことは、慎むべきだ。」

【④一審無罪に対する職権勾留について】
「かかる場面の勾留は、制限的であるべきだといった論が一部にあるが、正しくない。1審判決が、明らかに間違っているということも、現実的に起こる・・」

一言で言えば、手続保障など眼中になく、自らは常に正しいという傲慢この上ない姿勢である。
②のような発想は、証拠能力がなく、それ故に類型的に裁判所の事実認定を誤らせる蓋然性が高い「一件記録」(百歩譲っても、弁護人による反対尋問が行われておらず、故に、「疑いようもなく、真実の発見のために発明された最も偉大な法的装置」が作動していない段階の危険な証拠)に基づき、「再犯の虞」を見通せる、という傲慢以外のなにものでもない。
加えて言えば、再犯を阻止するためには、その裁判の運営上の何らの支障がなくとも拘禁できると言うことだから、予防拘禁である。我が国は予防拘禁を認めていないのであり、「何の法律的根拠も無い謬見」という主張こそ、「何の法律的根拠も無い謬見」である。

④のような発想は更にひどい。ぱっと記録を読み、その一存で無罪を破棄しようと確信する、ということである(現に論文の別の箇所では「1審判決は明らかに誤りと確信できなければ、職権勾留といった挙に出られるはずもない」とされている)。自分が間違っているかも知れない、という畏れの念は微塵も見受けられない。無論、弁護人が控訴答弁で何を言おうと、耳を貸す御仁ではなかろう。
その傲慢さは、豊川再審でも窺い知れる。愛知県弁護士会HPにて公開されているが、豊川再審における山口コートの棄却決定は、その内容ではなく、「長さ」に批判を受けるという異例の事態があったことが知られている(「本決定は、確定判決を無批判に追認し、新証拠を真摯に検討することなく、本文わずか9ページで再審請求を棄却した」)。
私は、山口コートで、「被害者側が青信号」を「被害者側が黄色信号」に事実認定を是正させて1項破棄判決を得た経験を持つが、知る限りでは、この種の破棄判決はこれだけではなかろうか、と思っており、本論文を見るとそれも宜なるかな、である。

①③は、何をか言わんや、である。
最高裁が、保釈許可決定を取り消すには具体的に不合理な点を指摘する必要があるとして、つまり神ならぬ裁判官の独り善がりな主観だけでひっくり返すな(具体的に不合理な点が論述されれば、それを事後的に検証に晒せるが、具体的に不合理な点が論述されなければ、結局は「そう思う」「いや思わない」というだけの水掛け論だけで身柄が左右されることになる)、と、二度に亘り警鐘を鳴らしたのに、それはどこ吹く風、そして、4号事由を巡っては立法段階から濫用的に用いられることを懸念する声が聞かれていたのに、「法の規定を幾ら眺めたって、出てこない。」という。
「法の規定を幾ら眺めたって、出てこない」のではなく、山口裕之という裁判官が法の思想を見ようとしなかった、法律よりも我欲で裁判をしていた、というだけのことだろう。

反面教師として、「この論文の間違いを糺しなさい(初級編)」ということであれば掲載価値があるのかも知れないが、そのためだけに特集に参加させるというのは度し難い。付録か、おまけページが相当だっただろう。

(弁護士 金岡)