些か旧聞に属する話題だが、最近、「被害者側」の勉強会の資料を読んでいて(弁護士会の縦割り行政の弊害も深刻で、刑事弁護・少年・刑事処遇という本来、一体的な分野ですら、それぞれバラバラに活動しており、少なくとも愛弁本会界隈では互いの情報交換も乏しいのが現状である・・ましてや、被害者側の勉強会資料は、意識的に手を伸ばさない限り全く知らないままに通り過ぎていく)、「絶歌」を巡る明石市の対応は、やはり公権力側のなすべきこととは思えなかったので、書いておきたい。

この問題は、いわゆる「神戸連続児童殺傷事件」を巡り出版された「絶歌」が、「本市とも関わりが深い被害者遺族らに対し、二次的被害を生じさせる出版行為」であるとの認識の下に、明石市が、「図書館等における貸出制限や閲覧制限といった購入後の対応ではなく、当該出版物をそもそも購入しないことにしており、市内の書店に対しても、二次的被害を生じさせたりしないよう十分な配慮を呼びかけております」としたことである。
これにより、市の図書館が購入していないことはもとより、市内の「全ての書店が自主的に店頭に置くのを止めた」「市民から市に寄せられた意見では、反対意見なし」という事態が生じて現在に至る、というのである。
このような事態が「誰もが被害者になり得る」意識に基づく立派な対応であると、肯定的に評価されている。

当該書籍は、例えばアマゾンであれば簡単に入手できる。
従って、明石市の対応も、所詮は市内で耳目に触れさせない程度の、知る権利の制限度合いも緩やかだという許容性の判断がされたのかと思うが、ことがそう簡単だとは思われない。

公権力が特定の表現行為の内容に着目して、その流通を規制することは、表現の自由そのものに抵触するため、最も危険な行為である、と考える必要がある。今回は、被害者保護を掲げているから、その危険性が目につかないのかも知れないが、一転して、市が加害者の行為について、被害者が声を上げようと出版に及ぶようなことを、虚偽に市政に仇なすとして規制するような事態を考えれば、その危険性は明白だろうし、もし(真実は無実という意味での)冤罪当事者の主張を被害者保護の名の下に封じてしまえるとしたら、それもまた深刻な事態である。
図書館にせよ、店頭にせよ、需要がなければ淘汰されていくのだから、そのような自由市場に任せるのが本来的在り方で、公権力による内容規制には全く賛成できない。

加えて、「誰もが被害者になり得る」という意識が必要であるのと同様、誰もが、(歪曲された事実関係に基づく過剰過大な事件像という意味合いで)冤罪の被害者になり得る、という意識も必要なはずで、明石市の対応は、一方向に偏している。
当該事件の「犯人」が、市中で流布している事件像が誤りであるとして、自らの真実を主張することは、当然の権利であり、間違った事件像に基づくという意味で冤罪被害者であることから脱することを市が妨げるというのは、表現の自由以外に、憲法13条の尊厳を冒すものとしても違憲の疑いがある。
ついでに言えば、この種の「冤罪」の主張は、平たく言えば受けが悪く、余り顧みられることもないため、声の大きな被害者側にかき消されがちである(これは、刑弁全般に言えることだと思うが、例えば、被害者の権利保護が十分でないという法改正を求める声は喧しいけれども、黙秘権保障が十分でないという法改正を求める声は、おそらく、余り見向きもされない類である)。それ故に、この種の「冤罪」の主張こそ、同等以上に保護しなければ公平な権利保障にならないと言えるが、現実にはそうではない。

こういった一方向に偏した危険な行為に対しては、憲法論や、刑事弁護の観点から、然るべき立場の方々が声を上げるべきだと思うが、そうなっていないようであるのはどうしてなのだろうか。

(弁護士 金岡)

【4月7日 追記】

現在閲覧可能な明石市の説明サイト

https://www.city.akashi.lg.jp/seisaku/soudan_shitsu/hannzai/hairyoyousei.html