本欄本年5月30日で、取調べにおいて歌詞の朗読を始めた検察官を紹介した際に「国際人権は、お気に入りの歌詞を朗読し出す取調べ手法をどう見るのだろうか」と独りごちたところ、早速、研究者よりイギリス法の紹介があった。

イギリス法においては、実務規範において取調べを「被疑者に対して犯罪に関連する質問を行うこと」と定義付けているそうだ。
そして、包括的な黙秘権行使を切り崩すために事件と無関係のことでも兎に角、供述慣れさせようと家族・友人のことについての質問から始める等の手段を駆使する捜査官に対しては(こういう手口は我が国でも「雑談」と称して横行している。洋の東西を問わず、人間の思いつく下衆なやり方は似通うものだ。)、捜査弁護実践は、「それは『取調べ』には当たらないのであるから、立会弁護人は介入すべき」ことを求めるのだと。

「ゆず」の歌詞朗読まで行けば格別、「雑談」が広く横行している風のある我が国と(因みに、私の中で包括的な黙秘権行使と言えば、それは当然ながら、雑談も含めて全てを黙秘対応することを指すから、私の中では許容も黙認もしていないが・・時にこれは「出来るだけ被疑者に楽して貰う」理念と相反することがないでもない)、イギリスとでは、やはり大きな開きがある。口を割らせるために、朗読会含め何でもありの我が国と、(私の理解によれば)あくまで当該事件の限度でしか質問の対象に据えることを許さないイギリスとで、どちらがより人権的、かつ、不本意な供述を生じさせ得るか否かにおいて安全か、考えるまでもないだろう。

また、上記イギリスにおける捜査弁護実践は、言うまでも無いが、取調べにおける弁護人の立ち会い制度あってのことである。
私が立ち会えれば、「事件と関係ない雑談は止めて下さい」「ゆずを歌わないで下さい」と介入することは容易であるし、この惨状を見ると、その改革は喫緊の課題だろう。

結局、前回も書いたが、我が国の取調べは人権後進国と言って差し支えないのである。

なお、この件では、担当検察官の名前を公表したらどうか(本欄ではこういう場合は得てして喜んで公表している・・熱心な読者がおられるものだと有り難く思う)というお勧めも頂いている。
もとより顕名は重要なことであるが、あくまで依頼者の伝聞に留まる現状(尤も、「ゆず」の歌詞の朗読などという珍妙な報告は、通常人が容易に想到し得るところではなく、極めて体験性に富む迫真的供述として高度の証明力がある)、無責任なことは出来ないが、検察庁には抗議文を提出していることもあり、いずれ御期待に添えることと思う。

(弁護士 金岡)