このところ意識的に勉強しているつもりの(といっても研究者と話す度に自分の理解度を危ぶむ状況ではある)、質量分析の話題を一つ、紹介する。
質量分析の原理は、物質を原子・分子レベルの微細なイオンにし、その質量数と数を測定するものだと理解している。イオン化させて、カラム内を通過させる中で、成分は成分毎に移動速度に違いが生じ、分離され、ピークを形成する。ピークに対応する保持時間同士を比べて一致(なにをもって「一致」というかも曲者である)すれば、同じ組成だと言うことになる。
取扱説明書その他の技術書によれば、機械の状態や周囲の環境などで保持時間に変動が生じること、また、用いるカラムが異なれば保持時間は当然に異なる。更に、同じカラムでも使い続けると「へたる」ために保持時間は(同じ成分でも)徐々に短くなる、といった現象を克服する必要があり、例えば覚醒剤の質量分析であれば、「間違いなく覚醒剤成分」と「尿中覚醒剤成分と疑わしき資料」とを連続して質量分析し、ほぼ同一条件下に保持時間を測定するということが不可欠になる(前者を「陽性対照資料」といい、相互の比較作業を陽性対照という)。
さて、少し前に金沢地裁で係争した案件は、大麻鑑定の事案であるが、石川県警の科捜研では、大麻鑑定について、逐一、本来的な意味での陽性対照をしていなかったことで紛糾した事案である。
即ち、同科捜研では、ある時「間違いなく大麻」を陽性対照資料とした質量分析を行い、それによる陽性対照で保持時間の一致を認めた「大麻と疑わしき資料A」の保持時間を、次なる大麻鑑定の陽性対照資料とし、そこで保持時間の一致を認めた「大麻と疑わしき資料B」の保持時間を、更に次なる大麻鑑定の陽性対照資料とし、そこで保持時間の一致を認めた「大麻と疑わしき資料C」の保持時間を、更に次なる大麻鑑定の陽性対照資料とする・・という具合に、2年近く、「間違いなく大麻」による陽性対照をせず、一つ前の鑑定結果を使い回すと言うことをしていた。
この分野の研究者の誰に聞いても「有り得ない」という杜撰な鑑定作業である。
なにしろ、各種要因に加え、既に説明したとおり「カラムのへたり」があるため、同じ質量分析機器を用いても保持時間はどんどんと短くなる。
事実、本件で、「間違いなく大麻」での保持時間が19.81分であったのに対し、その1年10ヶ月後に行われた被告人所有の「大麻と疑わしき資料」での保持時間は19.38分と、0.43分もずれており、出廷した科捜研の岩室嘉晃氏も、「両方とも大麻なら0.43分も保持時間が異なることはおかしい」と証言している。
さて、陽性対照資料と、「疑わしき資料」の2度、質量分析する以上、微細な保持時間のずれは不可避であり、微細にずれていても一致している、という基準が必要なはずだが、前掲岩室氏によれば、そのような基準はなく、技術者それぞれの裁量に委ねられているということである。
そうすると、本件の場合、(必ずしも岩室氏とは限らない)技術者甲による一致判定を経た「間違いなく大麻」と資料Aとが同一であり、次に技術者乙による一致判定を経た資料Aと資料Bとが同一であり、・・・ということを2~300回も繰り返して、その全てが一致していることが科学的に担保されて初めて、当初の「間違いなく大麻」と被告人所有の「大麻と疑わしき資料」との同一性が判定される、という理屈になる。
一審の弁護人である私が弾劾したのは、正にこの点であり、毎回陽性対照すべきところを、杜撰にも1年10ヶ月も前のデータを使い回し、外形的には「0.43分」という明らかに不一致の数値を無理矢理に正当化するという、剰え、そこに介在する2~300回の鑑定の中には「微細なズレの一致」基準について本当に正しいとは言えない考え方を有している技術者も含まれ得るというのに、無理矢理に正当化するという、きわめて非科学的にして危険な代物を根拠とした一致判定は受け入れられないというものであった。なお、岩室氏は、大麻について毎回陽性対照することは「残業することになるから嫌だ」という趣旨の証言をした(科学者というか、人として不真面目である)。
以上のような論点について、金沢地裁は、「確かに、弁護人指摘のとおり、本件鑑定の手法は、陽性対照資料とする鑑定結果が正確であることが前提となるところ、当裁判においてその十分な証明がなされているとはいえないから、ガスクロマトグラフ質量分析法の保持時間の検査は、それのみでは証明力に乏しいといわぎるを得ない。」と判示した(大村陽一裁判長)。この判示は科学的と言える。
なお、同地裁判決は、質量分析を除いた、外形検査、薄層クロマト、マススペクトル分析によって大麻と証明出来ている、としたが、「0.43分」という明らかな不一致の結論への説明を回避した点では非科学的であると思う。もし学会発表で、「鑑定手法ア~ウでは一致判定なので、鑑定手法エでは明らかに矛盾した数字が出ており理由を科学的に検証することはしていないが、まあ一致していると判断しました」、などといおうものなら、石を投げられるのではなかろうか。
控訴審弁護人によると、高裁判決は後退した模様である。
高裁判決にいわく、「ガスクロマトグラフ質量分析における保持時間は、同じ物質であれば一定になるのが原則であり、カラムの劣化によって、回数を重ねるうちに、ごく僅かずつその時間が短くなるに過ぎない。」「(そしてマススペクトルによる一致判定の信頼性は高い)」「そうすると、大麻の鑑定は、その都度大麻標準品の検査をして、これを陽性対照とするのでなくても、鑑定資料から検出されて成分の保持時間及びそのマススペクトルを併せみることにより(判定可能と言うべき)」とした(森浩史裁判長)。
私は科学には疎いことを自認するが、地裁判決と高裁判決を比べ、どちらがまだしも科学的かと言えば、地裁判決であることは明らかだろうと思う。
石川県警の科捜研の鑑定手法では、どこか1回でも、判断に誤りがあれば、その後の鑑定結果は全て誤りになるという危険性があり、それを全部証明しない限り、科学的にはゴミ屑同然である。(そもそも科学は、複数の検査の総合判定ではなく、それぞれが独立して科学的証明力を有しなければならないはずであるが、それをおいても、)どこか1回でも誤りが介在したかも知れない危険な鑑定を、証明なきままに総合判定に参画させて良いという発想は、なんというか、中学校からやり直した方が良いだろう惨状である。
裁判所が駄目だと、捜査機関は余計に駄目になる。
地裁で勝ち得た、「こんな杜撰な手法は認められない」という警告が後退したというのは、実に残念なことであるが、本欄でこのように取り上げておけば、石川県警の科捜研の杜撰さが、心ある弁護人により事件毎に槍玉に挙げられ、是正されていくのではないかと期待したい。
(弁護士 金岡)