本欄を「公益の代表者」で検索すると10件程度の記事が該当する。
言うまでもなく検察官は「公益の代表者」であり、我々は良くも悪くも、それが当たり前のこととして受け止め、解釈論の展開に用い、それでいて深くは考えない。
近時、知り合った、とある研究者(にして弁護士)から、(雑ぱくに理解すれば)「公益の代表者」をきちんとした制度に発展的に解消させ、検察官を一当事者にいわば格下げすべき趣旨の議論を拝聴し、刺激を受けたのだが、この分野でいくつも論文を書かれている白井教授(岡山商科大学)の論文を読み、基本知識に接せられたのは幸いであった。
以下、幾つか書きとどめておく(論文はウェブで読める)。
検察官に正義を追求する義務を負わせる、という議論に対して、醒めた意見としては「事案を解決してくれるわけではない・・有罪判決を破棄する際に儀式ばって取り上げられるもの」という指摘がある。
⇒ なるほど、ご尤もである。
米国では、検察官が被告人の「弁護人の援助を受ける権利」を侵害するような言動を法廷で行うことが禁止されている。被告人が援助を受けようとしたことに対し、コメントしたり、弁護人を蔑視・侮辱したりすることは権利侵害に当たり得る。ある裁判例では、「弁護人の援助を受ける権利の行使に対して被告人に罰を与え、かつ防御の中核を非難するコメントを害悪ないエラーと捉えることはできない・・・憲法上の権利に対する明白かつ陰険な非難は公正な裁判という概念に反する・・」と指摘されている。
⇒ 彼我の意識の高低に溜息が出るばかりである。取調室から追い出す、検察庁から追い出す、報復的に逮捕する(例の名古屋高裁判決は三行半で上告を棄却された)。彼の国には幾多も欠点があるが、こと手続保障の分野では、我が国の司法は何十周も周回遅れであろう。
米国では検察官が事実認定や証拠について個人的な意見を述べることが禁止されている。偽証罪の適用に服する証人ですら、認められないことなのだから尚更だという。
⇒ 被害者意見陳述を書面で代読する検察官が涙ぐむという場面を目にすることがあるが、差し詰め、かかる禁止規範に抵触し、不当な感情的表現を法廷に持ち込むものとされるのだろうか。
冒頭の議論に戻ると、幾ら公益の代表者だろうと言ったところで、何の解決も得られないことは確かである。現状では、その公益の代表者性から色々な規範(例えば証拠開示義務等)を導き出す必要があるが(白井論文は大いに参考になりそうである)、最終的には、それを法的義務にし、客観的に、明確なものにしていく努力が必要であろう。
(弁護士 金岡)