刑法雑誌62巻3号に葛野教授が書かれている論考である。
1980年代後半以降の刑事弁護分野の動きを回顧し、今後を展望するもので、共同研究には他に「捜査分野」「公判分野」「証拠分野」がある。何れも必読であろう。

論考中では、被疑者国選の拡大、整理手続等により否応なしに弁護技術の高度化が図られ、それにより防御権の実行化が図られつつあることに肯定的評価がされると共に、他方で国による制度化の立ち後れが指摘されている。
具体的には、
①在宅被疑者に対する公的弁護の保障
②公的弁護制度における弁護人指名権の保障
③身体拘束手続における対審構造化
④被疑者調べの適正化(立会制度や一定の情報開示等)
が指摘されている。
③は本欄でも関心をもって取り上げている話題であるし、④も(やや観点を異にするところはあり、また取調べ受忍義務がないことを確認させていくべきことに言及がないことを除けば)思うところはほぼ同じである。①に異論はなく、②についても現実的な制度設計上の課題はあろうと、「国選なので、この弁護士で我慢しろ」ということが通用しないことは当然である。
昨日付け本欄に於いて、イギリスの判決に於いて指弾された日本の刑事司法の後進性を紹介したが、制度があるところですら機能しているかが疑わしいことに加え、これほど根本的なところで制度改革が手つかずに放置されていることを分かりやすく指摘されると溜息しかない。

あと、論考では、葛野教授の関心事であろうか、不十分なもしくは被告人の意思に明確に反した弁護活動に対する刑事訴訟中における手続的救済の在り方が、近年の裁判例等を踏まえて論じられている。
自由闊達な弁護権の観点から、裁判所が「これが基準だ」と濫りに介入してくることについては警戒しなければならないが、そのことと不適切弁護を放置することとは別論であり、弁護士会内部に於いて、「当該弁護が合理性の客観的基準を満たしているか」の審理に堪えうる具体的弁護指針を作成しなければならない、という。
果たして弁護士会に、まともな指針を作る能力があるのか?も問われなければならないが、理屈の上で、このような指針を作れるとしたら弁護士会を置いて考えづらいことも事実である。研究者は(弁護士会が全く一枚岩になれないことに対し)無邪気に気楽だ、と独りごちたくはなるが、その指摘にも応えていく必要があるのだろう。そうでなければ、個々の不適切弁護を緩慢に放置し続けることになり、これに加担し同罪と言われても仕方がないだろう。

(弁護士 金岡)