【裁判所は二度、見抜けなかった】

これまで説明してきたように、差戻前第1審判決は、後にX-Y間の送受信履歴により判明する客観的に破綻したXYの筋書きについて、虚偽と見抜けなかった。

5月15日午後に3人で集まった、という当初の筋書きについて、弁護人は、例えば弁論中で「Yの当事者意識の欠如について」という大項目を設け、「その証言内容は客観事実と全く整合性が無い。悪く言えば虚実がない交ぜであり、よく言っても、枢要部で他人事のように場当たり的な証言に終始しており」と評価したが、裁判所の採用するところとはならなかった。
歴史的事実としては、3人集まったことは有り得ず、2人集まったかも疑わしい(差戻後第1審判決は否定)。にもかかわらず、いけしゃあしゃあと3人集まった筋書きを述べたXY証言は、つまるところ、経験しない事実を語った(騙った)ものであり、裁判所はこれが虚偽であることを見抜けなければならなかった(裁判所は、誤った有罪方向に間違わないのが最低限の仕事である)。

しかし差戻前第1審判決は、「・・(XYが)被告人にのみ罪をかぶせる理由が見当たらない。・・との虚偽供述をする動機が見当たらない。」「(XYらの供述は)相互に符合している上、・・客観証拠とも符合することから信用することが出来る。」等として、全く虚偽を見抜けなかった。
思うに、虚偽供述動機が「ない」ということが完全に証明されたとしても、その供述に証明力を認めるかは完全に別問題である。まして、通常、虚偽供述動機が「ない」と「完全に」証明されることは有り得ない。裁判所の限定的な想像力の下で「嘘を言っているようには思えないなぁ」程度の心証で裁判をすることが如何に間違っているか、本事例が証明したと言えよう。
また、供述を争われているXYの供述が相互に一致したから何だというのだろうか?勾留裁判や保釈裁判を通じて、軽々に「口裏合わせ」を認定してしまう裁判所が、検察側証人の口裏合わせを露ほども疑わず、それどころか、「疑わしいもの+疑わしいもの=信用できる」といった馬鹿馬鹿しい方程式を振り回す。日常まま見る冤罪方程式である。

事態はこれに止まらない。
XYは、差戻前第1審における証言に先立つ数ヶ月前、なんと別の民事訴訟で、本件と同一の事実関係について証言をしていた。
この民事訴訟が、X-Y間の送受信履歴から存在が発覚したことは既に述べたが、確定記録閲覧により内容を検討し、その結果、差戻前第1審の証言とも更に異なる筋書き(5月11日のAXの打合せについて、Aにアリバイが成立したことは紹介したが、民事訴訟ではここにYが参加していたことになっていた上、打合せ内容も異なっていた)が証言されていたことが判明した(これは公務所照会により、控訴審裁判所で取り寄せ、証拠化した)。
この民事訴訟においても、被告側はXYの主張、証言の信用性を争っていたが、民事裁判所は、XYが信用できるとして、その請求を認容し、これは後に確定した。曰く、XY供述は「・・(関係証拠と整合し、かつ、)特段不自然、不合理な点は見当たらず、採用することができる」というのである。
意図的な偽証を想定すれば、それなりに工夫を凝らすから、不自然不合理さは必ずしも確認されないだろう。つまるところ、何の役にも立たない判断指標を振り回して冤罪を製造しているといえる。

このように、、民事裁判所も、刑事裁判所(差戻前第1審)も、XYの主張、証言の信用性が鋭く争われる中で、正面からこれを検討し、XYを勝たせているのである。
後に事実でないことが証明される、その主張、証言を、証明基準を超えて信用できると判断してしまったことは、何故なのだろうか。

既に述べたとおり、前掲差戻前第1審判決の判示理由は、誤判にまま見受けられる典型例である。曰く、虚偽供述動機が無い、曰く、関係証拠と符合している・・。これらは、印象で結論を出した後に辻褄合わせをする裁判によく登場する言い回しであり、本当に証明力を高めるのかという厳密な評価を怠り、また、狭い了見で虚偽供述動機を思いつかない等という証明水準論とは懸け離れた領域で理屈をこねているだけである。
民事判決の「不自然不合理」云々も、同様の批判が妥当する。少なくともこれら判断手法の危うさが如実である。

ともすると裁判所は、「証拠関係がそうなっていたから、その当時の判断としては合理性がある」くらいに開き直るだろうが、それでは何も進歩は無く、冤罪は繰り返される。
繰り返すが、裁判所は、この2回の証言において、XYの偽証を見抜かなければならなかった。何故なら、それがその最低限度の責務だからである。それが出来ていないのだから、その原因を自ら検証し、改めるべきは改めなければならない。

【検察庁、裁判所の自浄、自覚は期待できないこと】

本件に於いて、差戻前第1審の平間文啓検察官が無罪証拠を入手していながら、それを隠して有罪論告を行ったことは、既に指摘した。
これは犯罪であり、許す余地の無い不祥事である。
しかし、そのことを控訴審でも主張したし、差戻前第1審でも取り上げたが、検察庁からは、この不祥事に対して何かしらの責任のある発言は、遂に聞かれなかった(名古屋高検の天川恭子検察官は、要旨「平間検察官は差戻前第1審の途中で事件を引き継いだばかりであり、整理手続の経過を十分に把握していなかったから、X-Y間の送受信履歴を開示しなければならないことに思い至らなかった」という、子どもでも言わないような言い訳を平然と展開していた)。
自浄作用を期待するだけ、無駄という奴である。

裁判所もだらしない。

控訴審でこの問題が発覚した当時、弁護人は、XYの差戻前第1審証言が何れも故意の偽証だと判明したのだから、そのような偽造証拠は証拠能力が無い、手続から排除すべきだと主張したが、裁判所は取り合わなかった。
また、名古屋高検が諦め悪く、予備的訴因を追加してきたときも、差戻前第1審の検察官が当初訴因について無罪証拠を入手していながら、それを隠して有罪論告を行った事態を踏まえれば、最早、検察官に有罪判決を求める資格はない等と、これを容れないように求めたが、名古屋高裁は有無を言わさず変更を許可して事件を差し戻し、A氏を更に刑事被告人の地位に縛り付け、且つ、有罪の危険に晒した。

検察官が無罪証拠を隠して虚偽の論告を行うという事態は、流石に滅多に遭遇するものではないと思うが、そのような異常事態において、憲法31条に統制されるはずの刑事司法手続が毅然として何らの手を打つこと無く、証拠から排除せず、また予備的訴因変更を認め、ついでにいえば更なる有罪獲得機会を与えるべく差戻判決を行う、というのは、余り上品な言い方ではないが「反吐が出る」事態であった、というのが偽らざる感想である。人を見て法を説け、とは良く言ったもので、相当数の検察官、刑事裁判官に、憲法を守るよう説いても無駄だと痛感する。なお、差戻後第1審裁判所も、控訴審からXYの再尋問を命じられた立場であるからやむを得ないのかも知れないが、同様の問題提起に対し一切、言及しなかった。謂わば、自らも有罪判決を騙し取られた被害者なのだし、それはさておきA氏をして冤罪被害の危うきに陥らせたのは事実なのだから、せめてこのような事態に対し、判決理由中でなにか言うくらいのことはすべきだったのでは無いかと思う。

残念ながら、検察庁にも裁判所にも、問題への自覚や、自浄作用は全く期待できない、と思わざるを得なかった。検察官が無罪証拠を隠して虚偽の論告を行うという事態に対し、黙して語らず、制裁手段も講じない、という規範意識の鈍麻。
このような検察庁や裁判所に、人を訴追し裁く資格があるのか、改めて疑問であり、被告人に対し規範意識がどうのと偉そうなことをいう前に、自分らの規範意識の鈍麻を見直せと言いたいのである。

(4/4・完に続く)