現実に飽いた時は古典を紐解きたくなる。
現代は情報に溢れており、時間は幾らあっても足りない。
「積ん読」状態の書籍はとても多い。
古典を読む効能は幾らも挙げられるが、ここでは原理に立ち戻り批判的精神を養うことを推しておきたい。「実務はこうだ」とか「裁判所はこうしている」等という思考停止に飼い慣らされないためには、意識的に原理に立ち戻ることが必要であろう。
イェーリングは、経済的側面から理に適わない係争を「権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である」と説く。「些少な価値しかもたない係争物のためではなく理念的な目的のために、つまり人格自体とその権利感覚を示すために遂行される」と。
司法制度の設計や、弁護士の心構えが、これに適うものであるのか、自覚的に振り返る必要があるだろう。
本書では、面倒な裁判を避けるために訴求金額を私財で払ってやろうと申し出た裁判官の逸話が紹介され、「原告にとって大切なのは自分の権利であって金銭ではないということが、この法律専門家には全然わからなかったのだ」と慨嘆されている。これ自体は極端な例かも知れないが、こういう思いを全然理解しない法律家が依然としている、ということには注意を払う必要がある。
いま一箇所、紹介してきたいのは正当防衛論についての下り。
現代における正当防衛論は、徐々にその成立幅を狭めようとする。正当防衛か過剰防衛止まりかの議論においては、常に、「正」が「不正」への配慮を要求され、咄嗟的な反撃であるのに、やり過ぎない義務を負わされるという滑稽な議論が展開される。
イェーリングは、「たとい単なる時計についての権利であってもおよそ権利が攻撃され、侵害されるということは、人間そのもの、そのすべての権利と全人格が攻撃され、侵害されることを意味するのだが、この単純素朴な考えを学説は見失ってしまっており、自分の権利の放棄、不法からの意気地のない逃亡が法的義務だとまで説かれるに至っている」「大きな恥辱」という。議論は乱暴だが、言うことは真理を突いていると思う。
かつて刑法研究者に意見書をお願いした事件(立命館法学2006年6号所収)は、車外から頭髪をつかまれ、更に暴力を受けそうになったためにアクセルを踏んで自動車を加速させたところ、加害者が転倒して傷害を負ったとされたもので、傷害結果の認定の他、正当防衛の成否が問題となった。裁判所は、傷害結果を否定する一方、暴行罪の成立を認め、アクセルを踏んで転倒させるほど自動車を加速させることは過剰防衛であるとして、(確か)7万円の罰金に処した(ちなみに捜査段階では殺人未遂で逮捕勾留されていた)が、転倒させないよう配慮しながら加速する義務がどこにあるのだろうか?と馬鹿馬鹿しく思ったものである。
(弁護士 金岡)