現在、書くことが多くて困っている位なのだが(11日で更新6回は幾ら何でも多すぎる)、とりあえず「旬の話題」を逃すわけにはいかないので本日はこの話題を。
先だって本欄(本年5月5日)で紹介した、岡口罷免事件に関するインタビュー記事の短縮版が、朝日新聞紙面に掲載された(本年6月11日付け朝刊)。
他の論者として誰が選ばれるのかや、どういう意見なのかは取材を受けた当時は知らされておらず、正直に言えば今回の紙面で初めて読んだ。
政治学者の西川氏の意見は、もとより畑が違うので論理構成は異なるが、方向性としては通じるものがある。
世論に流された罷免判決を抑止するための制度的手当論、萎縮効果による弊害は、細部まではともかくも頷けるものであり、早急に是正する必要があるだろう。
他方、ライターの長嶺氏は、罷免を是とする立場である。
その論旨は、「一般国民に矛先を向けて傷つけるような投稿」を行う裁判官は責任を厳しく問われてしかるべきであり、なんとなれば「こんな裁判官には裁かれたくない」という意識を国民に持たれてしまうからである、というものである。
(本業の判決や決定のお粗末さに「こんな裁判官には裁かれたくない」という思いは日常しているけど・・という揶揄はさておいて)私的なSNSに端を発した今回の騒動をそのような事実認定で捉えることは、弾劾判決からも出てこないように思われるので、前提とした事実が噛み合っていない感があり、残念である。
まあともかく、かように三者三様である。
勿論、多様な見方があって良いわけだし、多様な言論があって良いわけである。改めて、そう思う。是非その文脈で裁判官の市民的自由も捉えるべきであろう。
無難なことしか言わない裁判官ばかりになるのを防ぐ必要は、西川氏・長嶺氏共通の指摘である。そのためには、萎縮せず社会のそこここで活動できるようにすること、本業の判決や決定の中では、「言ったもん勝ち」の如き無内容なものを許さず、具体的明晰な説明を行わせて判断内容の品質保証に信頼を得させることが、まずは求められていると考える。
(弁護士 金岡)