本欄2021年11月12日において、調査官解説刑事篇の木谷調査官(当時)解説を取り上げたことがある。
実はこのころ、調査官解説刑事篇を読破しようという計画を立てて、ちょいちょい読んでいたのだが、思ったように速度は上がらず、未だ、ようやく昭和が終わる、という状況である(4年で8冊・・もう少し速度を上げないと一生、終わりそうに無い)。
本稿は、そういった調査官解説刑事篇の中で琴線に触れた部分の備忘である。
最三小1984年4月24日判決は、殺人教唆等の公訴事実についての唯一の直接証拠である被教唆者の検察官に対する供述調書の証拠価値について、最高裁判所が幾多の疑問ありとして破棄差し戻しした事案である。不勉強にして、全く知らない事案であった。
安廣調査官(当時)解説は、約30頁に及ぶ長大なものだが、「事案に即した具体的証拠判断に終始しており、特段の法律解釈を含むわけではなく・・この類型の破棄判決が判例集に登載されることは比較的少ない」と断った上で、事案の重大性に加え「同種の争点を有する事件も少なくないことから、実務の参考になる」としている。
共犯者供述が唯一の直接証拠である類型は、現代においても勿論、珍しいものではなく、それなりに供述状況が保全されている現代においても、それだけで証拠能力や証明力が決着するものでもないので、上記は頷ける指摘である。
そして、目を惹いたのは、まず、「真犯人ではない者であってもアリバイ立証ができるか否かは偶然に左右されるのであって、本件の被告人のように有力なアリバイ立証ができることはむしろ稀なことであると思われる。有罪、無罪の判断がアリバイの成否如何にかかってしまうような事態は、本来あまりあってはならないはずである」との指摘(298頁)である。
全く異論が無い。
しかしこのことが実務の現場でどれほど理解されているのかは怪しい。
「どちらが正しいか」ではなく「検察官が間違いなく正しいか」が刑事裁判というものであると理解していれば、先の山田論文のように、全部不同意はけしからんとか、薄い予定主張はけしからんという発想は出てこないのではないかと思われるからである。
もう一つ、「一般にある者の供述のことごとくが虚偽であることを逐一証明することは困難であり、その重要な一部が虚偽であることが明らかになれば、これと密接に関連する他の部分も虚偽ではないかと疑われて当然というべきであろう」との指摘(同299頁)も重要である。因みに、脚注ではローマ以来の法格言として「一事に虚偽あらば万事に虚偽あり」が援用されている。
出来の悪い判決に、「この点については弁護人の反対尋問でも特に弾劾されていない」というような言い回しが用いられることをまま見受けるが、正しく上記のとおり、「そこについて直接的な弾劾の手がかりは無いが、他の部分で虚偽を述べているのだからお察しだろうに」という場合は不可避に存する。刑事裁判の限界を弁え、間違っても冤罪方向にだけは間違わないようにしようと考えるならば、先のアリバイにしてもそうだが、「そこまで求めるのは性質的に無い物ねだりだ」という弁えは重要である。
見事に、端的に言い当てていると感心した(供述Aが虚偽であると断じられた場合に、密接関連部分が信用できなくなるのは当然として、全く関係ない供述Bについても、当然、慎重になるべきであると考える。上述の「密接に関連する他の部分」との言い回しに拘るよりは、その含意するところに着目すべきである。)。
(弁護士 金岡)