忌避申立に対する簡易却下に業を煮やした弁護人は星の数ほど、いるだろう。
刑訴法24条1項は「訴訟を遅延させる目的のみでされたことの明らかな忌避の申立」でなければ簡易却下出来ないとするが、法廷闘争華やかなりし時代ならいざ知らず、今時「訴訟を遅延させる目的のみ」どころか、訴訟遅延目的が含まれている忌避申立すら、殆ど存在しないだろうと思う。

自分の中で思い出に残る簡易却下は沢山あるが、敢えてこれをと言うことで、かれこれ15年も前のことを紹介しよう。
折から創設された期日間整理を活用して集中審理計画を立て、いざ尋問に入ろうという初日、尋問担当弁護人の父親が身罷り同弁護人が喪主を務めるので出廷できない、という事態になった。有罪であれば無期懲役(こちらは無罪主張)だろう事案、公訴事実は確か4つあり、証人予定者も軽く二桁、尋問担当を手分けして臨んでいたので(今なら、一人でやると思う)担当弁護人が不在ではどうにもならない。
こういう事情であったから、当然、期日延期になると思いきや、裁判所(既に退官された天野裁判長)は期日延期を認めず、尋問を強行しようとした。
このような経過で、忌避を申し立てた。
これに対し、「訴訟を遅延させる目的のみ」として簡易却下されたのには、「どうせ裁判所はそうだろう」と予想通りではあったものの、やはり、承服しがたいものであった。反対尋問権が十分に行使できるように忌避を申し立てたのであり、訴訟を遅延させる理由などどこにもないからである。

こういった経験を通して、忌避が濫用されているのではなく、簡易却下こそ濫用されていることは、余りにも明白であると考えている。通常却下ならまだ我慢もしよう。しかし、「訴訟を遅延させる目的のみ」と決め付けられることは耐え難い。

とまあ、いきなりこういうことを書いたのは、かつて保釈90に寄稿頂いた郷原弁護士から、簡易却下が濫用されるようになった歴史的経緯の考察をお教え頂いたからだ。
かなりの労作であるが、要約すると、昭和30年末までは、簡易却下は極めて例外的、制限的であると解さざるを得ないとする東京高決1957年9月19日に代表されるように簡易却下は極めて例外的なものとして運用されていたという(法の文理が「遅延させる目的のみ」と強い限定をしていることと平仄が合う)。
それが、「荒れる法廷」の時代に入り、忌避申立が乱発される中で、対抗策として簡易却下の活用が始まり、最決1973年10月8日においてこれを是認する流れとなったのではないか(最決1973年10月8日も、チッソ川本事件という、一種法廷をも運動の場と捉える、象徴的な事案に関してのものである)、というものである。

このような歴史的考察を引くまでもなく、簡易却下の濫用自体は明白であるが、このような歴史的考察があたっているとするなら、今の時代のように、別段、「荒れる法廷」のような忌避申立が乱発されるような事案は皆無である時代においては、最早、「立法事実」も失われ、最決1973年10月8日は遺物というか異物であり、用済みであると考えて良いだろう。

最決1973年10月8日に馴らされた裁判官は、(少し考えれば、その論理性の欠如は誰にでも分かろうものだが、)理由のない忌避は簡易却下と、条件反射するように育成されているのだろうが、そのような過去の遺物からそろそろ脱却し、本当に「訴訟遅延目的」「のみ」なのか、熟慮し、慎重に認定するという、法に忠実な姿勢を取り戻すべきだろう。

私は相当数の忌避申立を行っているが、訴訟遅延目的のみの忌避申立をしたことは、ゼロであると、自信を持って言える。現代を生きる弁護士のほぼ全員がそうであろう。

(弁護士 金岡)