【1】
今回、取り上げる話は、決して褒められたものではないのだが、しかし最終的に自らの誤りを認めて訂正出来たという意味では、聞く耳を持った裁判体として高く評価する必要があるという、そういった話題である。
【2】
動いている事案なので、特定性のある部分を避けると、「被告人の端末内蔵データ」を採用するかどうかで議論になり、弁護人は反対したが裁判所が採用し、次に「内蔵データ」どうやって取り調べるのかが議論となった。
2万点もの画像があり、検察官が使いたいのは150点。500点もの動画があり、検察官が使いたいのは3点。弁護人は、その証明力を適切に評価する上で、「殆どが無関係だ」という全体像の中にきちんと特定の画像なりを位置付ける必要があると主張(いかにもな数点だけが保管されているのか、全体として雑然とした中に数点、残っていたのかは、当然、違いをもたらす)し、裁判所に対し、全部の再生を迫った・・そういう議論状況である。
裁判所は、当所、全部再生に消極的で、「全ての静止画、動画をサムネイルであったとしても全部再生する必要はないという風に考えている」と主張。
これに対し弁護人は、「全部再生するのが刑訴法上の原則で、その原則を曲げるには訴訟当事者の同意がいる。弁護人はその原則を曲げることに同意しません。いかに馬鹿馬鹿しい証拠ということを体感していただく。」と応戦。
侃々諤々の議論となった。
裁判所が全部再生に拒否的に押し切ろうとするので剣呑さを感じ、それならば手続的瑕疵を明確にする必要があると考え、「手続調書は逐語で残していただきたい。裁判所がどのような本音で物事をご覧になっているかということをこちらは重視しています。」と求めるも、裁判所はこちらも「内容が分かる程度でよろしいですよね」などと、要旨調書しか残そうとしない構え。
議論が続く間、二度、合議のための休憩を挟んだが、平行線状態が続いた。
動画の再生について言えば、裁判所が「基本的には1フレーム目のサムネイル」を取り調べた上で、検察が3点というなら弁護人は倍の6点まで再生を認める、などという、訳の分からない提案をしてきたため、更に議論が苛烈化し、「(弁護人)どうして6なのか説明して下さい」「(裁判長)例として申し上げただけです」というような論争が、ざっと1時間近く、応酬された。
それでも裁判所が折れないので業を煮やし、刑訴法に基づき証拠調べの方法について明確に決定するよう要求して、期日はお開きとなった。
【3】
そして、蓋を開けてみると、なんと動画を全部再生する、という決定になっていたので、少し驚いた。
理屈でいえば全部採用した内蔵データの全部を取り調べざるを得ない訳で、当事者が同意しないにもかかわらず恣意的に一部データの取調べを省略することが許される筈はないのだが、二度も合議してもなお、一部再生に固執した裁判所が、証拠決定の段階で考えを変えるというのは、少々、予想外だったからだ。
また、手続調書の逐語化を要求した点に示されていた難色も、(全部を総点検したわけではないが)それなりに逐語的に残されていたのではないか、と思われる。
例えば、以下のように、普通なら抹消されかねない遣り取りも、綺麗に残されていた。率直なところ、この遣り取りは間違いなく抹消されるだろうと、調書異議に備えてしっかりこちらの記録に残していた部分である。(なお「2時間」というのは、第1回公判期日が2時間枠で押さえられていたことを受けてのものである)
「(弁護人) 話を聞いている限り2時間で終わらせたいと思っている風にしか思えないのですが。」
「(裁判長)基本的にはそういう部分があることは否定はしませんけれども」
「(弁護人)そこを否定しないのは、裁判官だめじゃないですか。日程のために防御権を犠牲にしろと言われたら・・そういう本音を見せていただけるのは有難いですが・・」
【4】
以上の通り、不満が残る部分もあるが、500点の動画のうち9点しか再生しない、というような防御権侵害は回避出来、また、「2時間で終わるように再生数を制限する」という本音を手続調書から抹消される事態も回避出来た(お陰で本記事を正確に書ける)。
思うに、強大な決定権限を持つ裁判官は、綺麗事に聞こえるかもしれないが、常に柔軟に聞く耳を持ち、自身の考えを改めることを躊躇うべきではない。例の「確証バイアス」もそうだし、証拠に基づく裁判には局面毎に展開が変わりうる流動性があるため、当初の心証に固執しても碌なことは無い。
その意味で、今回の裁判体は、(1)2時間枠で終わるよう、500点中9点しか再生しない、という誤った訴訟指揮を悔い改め、全部の再生に応じることとしたし、(2)自身の問題発言を含め、手続調書を逐語的に残すことにも応じた。
出発点が、上記の問題発言にあるため、手放しで褒められる訳もないが、聞く耳を持って訴訟指揮する、というのであれば、望むところではある。それすら出来ない数多の裁判体に比べれば、遙かにましというものである。
(弁護士 金岡)