西愛礼弁護士の「『人質司法』について」(判例時報2608号5頁以下)を御紹介頂いたので、読んでみた。以下は雑感である。
要旨は、「自白強要を目的として」というと反発され議論があらぬ方向に流れるので、人質司法を「無罪を主張し又は黙秘権を行使するほど身体拘束が認められやすいこと」(要約)と定義付けた上で、それが事実であることを統計的に実証し、その上で、どのような構造化からそのような現象に至るのかを検討し、罪証隠滅要件を極めて厳格に判断することや供述態度を考慮要素しないこと等を提唱するもので、まあ言っていることは普通に理解出来る。身柄裁判の非対等性や、判断の事後検証が困難であることを指摘している点も、私の問題意識と通じるものがある。
ただ、率直に、読んでいて問題を感じた点がある。
「そもそも、身体拘束における罪証隠滅要件に関して、裁判官は職務上一定数の罪証隠滅事案を目にすることになる。その結果、裁判官は被告人が特定の証拠に関する証拠隠滅や証人に対する口裏合わせを図る具体的方法を想起し、それが現実的に十分有り得るもので実効性も高いなどとして『罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由』を認定することが容易になる」という下りである。
「裁判官は職務上一定数の罪証隠滅事案を目にすることになる」・・これは本当だろうか。一定数とはどの程度の数なのだろうか。それは本当に罪証隠滅だったのか(例えばBさんに、あれは甲ではなく乙じゃなかったのかと問いかけて、そういえば乙だったと「正しい」記憶を取り戻させることは、打合せなのか、それとも罪証隠滅なのか)。
20数年、弁護士をやっていれば、罪証隠滅だなと思う場面を全く見ないわけでもないが、はっきりそう断じられるのは十指にも満たないと思う。だいぶ感覚が違う。
また、そのような裁判官の経験を下地にすると、「裁判官は被告人が特定の証拠に関する証拠隠滅や証人に対する口裏合わせを図る具体的方法を想起し、それが現実的に十分有り得るもので実効性も高いなど」とすることが容易になる・・というのも本当かは極めて疑わしい。
仮に西論文が、上記のような罪証隠滅は実際問題有り得るが、勾留要件としての罪証隠滅要件を極めて厳格に判断することで打開を図ることを提唱しているなら、それは違うだろう。
本欄ではよく批判するが、例えば「本件事案の内容、性質、証拠の収集状況等に照らせば、被疑者を釈放した場合、自己又は第三者を介して関係者に働きかけるなどして、犯行の動機・経緯等の重要な情状事実について罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があると認められる。」といった空疎な決定理由しか書かれないから、裁判所が「具体的方法」「現実的に十分」「実効性も高い」などという基準を乗り越えたのか、無視しているだけなのか、此方には区別出来ないが、接見室ではよく、裁判所の判断は妄想じみているとか、そんな効果的な罪証隠滅の方法があるなら教えて欲しいよねと冗談交じりに話したりする。
こちらの経験からは、「具体的方法」「現実的に十分」「実効性も高い」などという都合の良い罪証隠滅はそうそう転がっていない(そんな都合の良い罪証隠滅がそこここに転がっているなら、相当数、罪証隠滅行為により有罪立証が頓挫した事案が存在しなければならないが、そんなことは一切、見受けられない。)。従って、それを認定出来たという裁判所の認定は「有り得ない」という結論に至る。
上記一点を以て全てを駄目出しするわけではないが、人質司法に切り込む上で、本当にそのような、「具体的方法」「現実的に十分」「実効性も高い」などという都合の良い罪証隠滅を間違いなく認定出来るのか、は改めて問う必要があり、その点をすっ飛ばしても、裁判所は、過剰な身体拘束批判が何故生じているか理解出来ないままだろう。
つまるところ、罪証隠滅要件の判断基準がおかしいのではなく~いや基準も十分ゆるゆるでおかしいのだが、それと同様以上に~裁判所が認定出来ていると思っている罪証隠滅像が、実は妄想の産物に過ぎないところにこそ、過剰な身体拘束が生じている原因があると考える。この点を真正面から確認し、変革を迫らない限り、事態は何も変わらないだろう、と思う。
(弁護士 金岡)