最初に断っておくと、当事務所でも2件、原発ADRを受任しており、原発事故について東電が賠償責任を果たすべきことについて、私は些かも疑問を持たない。とりわけ最近は、賠償拒否にも開き直りの姿勢が目につき、腹に据えかねているところでもある。
さて本題。周知の通り、東電役員が検察審査会の議決により強制起訴された、という報道がされ、各所で論評されている。新聞報道も、(新聞社により論調は予想されたところではあるが、)各紙特徴的な意見も出しているところである。
例えばA紙報道は、「事故防止対策にやり過ぎということはない。東電は刑事裁判を通じてそのことを再認識すべきだ」「法廷で責任の所在を明らかにしてほしい」「これだけの被害を引き起こし、誰も責任を取らないことは到底許されない」といった声を紹介し、無論、強制起訴に好意的と読める。他方、別のB新聞社は「99%以上とされる高い有罪率を見込む検察官による起訴と、「黒白は公判で」とする傾向がある検審による強制起訴の間では、基準に大きな隔たりがある。二重ハードルが共存する現行の検審のあり方についても、議論があるべきではないか。」等と疑問を投げかける。
刑事弁護人として言うべきことは、起訴される側のことも考えるべきだ、ということである。起訴されれば、大なり小なり刑事裁判手続に拘束され、社会的には「刑事被告人」であり、弁護士費用も(多くの場合、私選弁護人を選任するだろうから)自腹である。そして、無罪となった場合、弁護士費用や社会生活上の不利益(一般人であれば就職からして不利益を受けるであろうことは見易い)についての十分な補償はない。起訴されたことを相手取って国家賠償請求を行うことも、険しい道である(検察審査会の議決を受けた強制起訴制度のどこに、国家賠償法上の違法を見出せるというのかは、大変困難であろう)。
この意味で、B新聞社の意見に賛同せざるを得ない。検察審査会に「黒白は公判で」という傾向があることは、小沢議員事件の時にも指摘されているし、その他、鉄道事故等の社会的な事件での強制起訴がされる都度、指摘されていることであり、これらがことごとく無罪となっている点でも、「感情的に許しがたいからとりあえず裁判を受けさせろ」という動因があると言われても否定は出来ないのではないか。
かたや利益原則に忠実であれと言いながら、かたや制裁的に裁判を受けさせる、というのでは、辻褄は合わない(仮に世論がそれを求めているとしても、それに迎合することは、社会的なリンチを許容することに他ならない。)。そして、優先されるべきは利益原則の徹底でなければならない。検察審査会制度には、利益原則を損なわない改善が求められていると思う。具体的には、健全な訴追裁量が期待できない類型(身内庇いの危険がある公務員犯罪や捜査関連事犯、刑事司法関連事犯)に限定すること、である。(なお、話が逸れるが、逆の意味で不健全な起訴が行われる場合(例えば検察立証を裏切った証人が偽証罪で起訴されるような場合)に備え、不当起訴を取り上げられるようにも、改善することが必要だろう。)
ともかく、強制起訴の事例を目にする都度、とりあえず制裁的に起訴される側はたまったものではないな、という思いが先立つのである。
(弁護士 金岡)