一部報道されたことであるが、「自身とみられる男性が縄で縛られている画像」を自身のツイッター上に投稿した現職裁判官が、所属裁判所長官から厳重注意を受けた、とのことである。
報道内容や、これに対し的を射た弁護士のコメントについては、次のURLにまとめられている。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/06/28/judge-was-warned-about-his-tweet_n_10710006.html

幾つかの切り口が考えられるが、上記弁護士のコメントにある「裁判所は個人のキャラクターが見えるということをすごく強く禁止しますよね」という指摘は重要である。日本の裁判所はとかく、公正「らしさ」を強調して、職業上は内面に閉じこもりがちであると見受けられる。腹の中が真っ黒で外見だけ公正な裁判官と、自分をさらけ出し、その上で判決を行い、外部からの検証に晒される裁判官と、どちらが良いかといわれれば、無論、後者である。公正「らしさ」論には、以前から(受験時代から)辟易している。

もう一つ指摘したいのは、上記のような画像を、「現職裁判官が裁判官の品位と裁判所に対する国民の信頼を傷つける行為をしたことは、誠に遺憾です」として、つまり品位を傷つける、信頼を失わせるものと決めつけ、統制することを問題と思わない裁判所の見識のなさ、危うさである。
現職裁判官がSM趣味を持つことは恥ずべき事なのか。また、現職裁判官がSM趣味を公言することは恥ずべき事なのか。裁判所が、そのような価値観を押しつけるのであれば、SM業界の関係者は、それこそ、裁判所に救済を求めることを躊躇うであろう。なんとなれば、自分たちは蔑視されていると分かるからである(皮肉なことに、腹の中で蔑視しながら公正らしく裁判を行われるより、こうやって蔑視していると公言して貰う方が、ナンボかましというものではあるが)。
もし、世間的に高雅な趣味をツイッターに投稿したなら、厳重注意は受けないであろうから、今回の長官の厳重注意は、現職裁判官の私生活に干渉して統制を試みただけではなく、一定の表現内容を貶めた、と言える。SM趣味は、どちらかといえば理解されにくい、つまり少数者の表現行為であり嗜好であるとは思うが、だからといって、それを貶めることは筋違いである。というより、ともすれば貶められやすい少数者を、そのような多数派の「常識」による横暴から擁護するのが司法の本懐ではないのだろうか。このような長官による思想統制を受け、少数者を徒に貶めることを問題と思わない裁判官による裁判には、全く希望がもてない。

私の刑事事件の依頼者層には、傾向的に少数派であったり、更に進んでアウトローと分類される人も多いのであるが、職業や生業が(裁判官なら先ず近寄りもしないよと)蔑視され、そのような感情を背景に言い分が排斥されていくとするなら(人間誰しも、共感できないものを支持しようとはしないもので、それは深層意識のなせる技でもある)、それは最早、裁判ではなく、多数の横暴による私刑の類であろう。

もっと問題視されるべき、危険な事態である、と思う。面白おかしく報じるのではなく、ここに潜んだ危険さをえぐり出す報道が求められる。

(弁護士 金岡)