刑事訴訟法にも管轄移転請求の制度があるが、その裁判所では冷静・公正な審理が期待できないことを理由として管轄移転請求されることは、数自体、数えるほどしかなく、認容事例など無いだろうと思われる。
米国では、オクラホマビル爆破事件の終身刑を受けた側の被告人について、熾烈な論争の末に弁護側が管轄移転を勝ち得た、やに聞いた。このことを聞いてから、上記のような不活性の状態を残念に思っていた(思えば、我が国の裁判では忌避制度も死文化しているようなものである。裁判所は、公正、公平な審理を為し得ないと言われることに、極めて強いallergy反応を示すようである。)。
さて、掲記最決は、沖縄で発生した米軍属男性による強姦致死等被告事件について、弁護人が、沖縄県民により構成される裁判員裁判では公平な裁判が期待できないとして申し立てた管轄移転請求を棄却したものである。大々的に感情的な報道がなされれば、意識的無意識的を問わず、一定方向の感情がすり込まれよう。有罪無罪を分ける場合であれ、量刑を決める際であれ、これが不利益に働かないとは限らない。沖縄を遠く離れて裁判すべきという主張は、とても良く分かる。
案の定、裁判所はこれを棄却したのであるが、その理由は全く感心しないものである。
曰く「(裁判員制度の制度設計下にあっては)裁判員は、法令に従い公平誠実にその職務を行う義務を負っている上、裁判長は、裁判員がその職責を十分に果たすことが出来るように配慮しなければならないとされていることも考慮すると」公平な裁判は制度的に十分に保障されている、というのである。
義務があるからといって、公正中立に「できる」かは別問題である。裁判長が配慮したら、すり込まれた偏った印象が雲散霧消するというわけでもない。公正中立にすべきとされているから公正中立にやるだろうでは、なんの答にもなっていない。議論のすり替えどころか、最早、戯言である。
千葉勝美裁判官の補足意見も、同じようなものである。
曰く「・・・沖縄県の特殊事情、県民の様々な思いがあったとしても、適正な手続で選任された裁判員としては、法と証拠に基づく公正な裁判の実現を目指すべきであり、また、目指すことは十分に信頼できるところであって、これこそが裁判員裁判の制度を支える基礎となるものであろう」とある。
目指すべきであり、目指すだろう、は良いが、目指しても到達できない場合はあるだろう。被告人がそれを心配しているのに、目指すから良いでしょ、では、話にならない。まして後半のくだりは、裁判員裁判を強行するための生け贄にどうぞ、と読める。
被告人にとっては一生を左右する、一生に一回の裁判である。
それなのに、制度の建前、べき論、目指します、で、救済しないというのが、憲法上の公正な裁判の保障に忠実であるとは、到底、思われない。
(弁護士 金岡)