前回「その一」で、認容決定の現実的危険論を批判した。
「かもしれない」の「三乗」を現実的危険と表現すべきとは、到底考えられないからである。「かもしれない」を重ね掛けしなければ説明できない出来事は、現実的にはそうそう、ない。有り得るかも知れないが、そうそう起こらない出来事を、世間常識は「現実的」とは言わないと思う。

この認識のズレの背景には、抜きがたい被疑者・被告人への不信がある、と考える。
保釈を広く認める方向へ扉を開いたと一躍注目を集めたジュリスト「松本論文」には、「争点・証拠の整理が早期に確定され、審理のスケジュールがたてられていることも、保釈を容易にする要素になりえる」との記載がある。一見すると尤もであるが(今回、2週間で結論を逆転させたのも、この考えから導かれる方法論に則っていると言える)、「争点・証拠の整理が早期に確定され」なければ保釈は難しいのだろうか。
黙秘、否認するなどして手の内を明かさない被告人は、腹に一物も二物もあるかもしれない。事と次第では罪証隠滅に出るだろう。それは成功するかも知れない。それは困る。念のために保釈しないでおこう。松本論文にして、このような不信を背景に、それが解消されれば保釈を認めていこうという限度で改善を提言したというのが私の受け止め方である。
しかし、腹に一物も二物もない被告人もいる。痛くもない腹を探られて保釈を認められないと言う事態は如何なものだろうか。具体的な事情、証拠に照らして、果たして罪証隠滅に出るとも出ないとも結論づけられない被告人は、多々、いよう。そのような被告人に対し、何かするかも知れないから保釈しないでおこうというのが、未だに裁判所の趨勢であり、それが、例えば前記のような現実的危険論として顔を覗かせる。決め手がなければ保釈すべきだというのが、人権に立脚した考え方ではないか。裁判官も、もし自身が勾留されたとして、何もするつもりがないのに、何かするかも知れないから保釈しないと言われたら納得できるだろうか。我が身に置き換えて納得できないような裁判をするべきではない。

周知のとおり、平成28年刑訴法「改正」に伴う付帯決議は、「保釈に係る判断に当たっては、被告人が公訴事実を認める旨の供述等をしないこと又は黙秘していることのほか、検察官請求証拠について刑事訴訟法第三百二十六条の同意をしないことについて、これらを過度に評価して、不当に不利益な扱いをすることとならないよう留意するなど、本法の趣旨に沿った運用がなされるよう周知に努めること」とした。
裁量保釈における考慮要素の明文化を、裁判所側は、実務を明文化しただけで何も変わらないと強弁するが、普通に考えて、外野は、このようにでも言い渡さなければ目に余る惨状(日弁連風に言えば「人質司法」)を感じ取り、ついに立法府からの注文がついた、と見るべきであろう。

かくして、折角の認容決定であるが、きっぱり4号事由を否定すべきであった、少なくとも、「かもしれない」の三乗のような理屈を堂々と説明するようでは、残念であった、というのが、私の考えである。(完)

(弁護士 金岡)