さて、(その1)のとおり、今や国選をや「れ」ないが、法テラスが立ち上がるまでは大いに国選弁護を受任していた(ついでに言えば、今でも医療観察法の国選付添は法テラスと契約しなくてもできるので、断らないようにしている)。
そこで、一応、私選と国選について語る資格はあるとして、「国選と私選で違いはあるか?」という命題を考えてみたい。
国選と私選で違いはあるか?と聞かれた場合、模範回答は「同水準であるべき」という、噛み合わない回答になる。そして、少なからぬ弁護士が、違いはあると答えるのではなかろうか。本来業務に含まれないが、頼まれればやっても良い範囲では差がつく、と言う程度の認識であろうが、それを踏まえても、やらなければならないことは等しく、やらなければならないし、やらなくてよいことは、等しく、やらなくてよい、というだけの単純な理解からすれば、同水準である、という回答になる(逆に、もし、示談や身体拘束にかかる手続は私選でないとやらない、という弁護士がいたとすれば、懲戒ものであろう。職務基本規程46条、47条。)。
要は人を得るかの問題であり、国選私選で弁護水準は変わらない、はずである。
ところで、(その1)のとおり、国選だと多様な実費支出が弁護人の自己負担になるから、自己負担を嫌う弁護人だと、記録の謄写はしない、依頼者への複写も勿論しない、現地にも行かない、となる。仮に専門家の意見が必要な事案だと判断しても、その費用の出所がない(依頼者の親族に負担して貰う裏技的なものも時に耳にするが、濃いめの灰色領域である)(愛知県弁護士会では一定額まで鑑定費用を助成する基金がある)。
そうすると、ここではどうしても国選の水準は劣り得る、と言わなければならない。
往時は、国選で一定自腹になってしまうのはしょうがない、心意気の良い裁判官にあたれば裁量で割と実費も填補され得るし、そうでなくても公益性も強いから、という、弁護士の良心にかけて同水準と考えていた。しかし、いざ自身では国選をや「れ」なくなると、にもかかわらず、良心にかけて自腹を切れ、とはなかなか言いづらいことに気付かされた。
ただ、周囲を見る限り、採算性を気にせずというか、使うところは使って国選をやっている層がきちんといる。それ故、やはり、国選と私選はほぼ同水準(要は、人を得るかどうか)と言うのが私の答えになる。
(弁護士 金岡)