たまたまインターネットで見かけた話題であるが、見過ごせない事態がある。
最高裁判事の任命にあたっては、判事出身、検察官出身、弁護士出身など、出身母体で枠をもうける慣行が定着しており(どうも1990年代からは間違いないらしい)、例えば一票の価値平等訴訟などでは、出身母体により結論の傾向性が色濃く出ることが知られている(あくまで傾向性と言うだけで、弁護士出身でも合憲方向の意見を述べている方もおられる)。また刑事事件分野では、検察官出身の判事だけが有罪を維持すべきと反対意見を述べている事案が(全体量からは一部にせよ相対的には)割合と目につく印象である。
憲法と「良心」に忠実と言っても、そこはやはり、来し方で「良心」の成長方向が大きく左右されることはやむを得ないし、最高裁判事だからといって人格高潔な聖人君子というわけでもない。人数割りの現状はともかくとして、各層の声を多様に反映させるためには、出身母体で枠を設けるのは賢明な遣り方であろう。
さて、今般、山口厚氏が最高裁判事に任命されたのだが、てっきり「学者枠」と思っていた。なにしろ刑法学者として高名である。
しかし、これが実は、弁護士枠であった、しかも弁護士会が推薦していない、というのだから、ことは穏やかではない。
ことの経過は、次のようである。
「最高裁判事は内閣で任命するが,慣例として最高裁の意見を聞くことになっており,最高裁に対しては日弁連から数名の推薦を行い,それを踏まえて最高裁が意見を述べていた。今回,最高裁からの意見を聞く過程で,政府からこれまでより広く候補者を募りたいとの意向が示され,それを踏まえて,最高裁は日弁連推薦の候補者から選んだ者に加えて山口氏を含む候補者を政府に伝え,山口氏が選ばれた。」
どうにもはっきりしないのは、
日弁連からの推薦 → 政府の意向 → 最高裁が山口氏を追加
政府の意向 → 日弁連からの推薦+最高裁が山口氏を追加
の、どちらの順番だったのか、である。
日弁連から推薦された顔触れを見て、政府が「これじゃ任命したい人がいないよ」ということで、それを「広く候補者を募りたい」という形で表現したのだとすれば、政府が日弁連推薦を拒否した、ということになるだろう。
もちろん、制度的には政府は、日弁連推薦を受け入れる義務はないし、それどころか最高裁から意見を聞くことすら慣例に過ぎないのであれば、全員が全員を政府に都合良く操作できるわけではある(米国最高裁が、政権交代と共に微妙に傾向性の分布が変動することは知られている。日本でも、そうあろうとすればそうできることはできるのである。)。
しかし、20年以上も、合理性のある慣行が定着し、多様な層の声を反映させると言うことで動いてきたものが、説明もなく一方的に破られ、結果的に日弁連推薦が拒否された事態には、いかがわしさを感じる。
前記傾向性に照らせば、ややもすれば違憲方向、人権方向、無罪方向に出がちな弁護士枠を減らしにかかった、と勘繰ることに合理性がある(なお、山口氏が政府に都合が良い方だ、などと言っているわけではない。あくまで制度設計の議論である。)。
日弁連執行部は、「弁護士出身の判事として対応することを考えている」と苦しい説明に終始しているが、前記順番の問題も含め、より詳細に事実確認をして、どういった要請から慣行が破られたのかを突き止める必要があると思う。
(弁護士 金岡)