最近、たまたま札幌の「おとり捜査」再審の決定(札幌地裁平成28年3月3日)を読んでいたのだが、(迂闊にも今頃になって)新証拠は元警察官が確定審で偽証したと認めたこと等であることを知った。確定審では組織ぐるみで口裏合わせを行い偽証した警察の策が功を奏し、おとり捜査すら否定されたものが、偽証の自認等で根底から覆ったことが決定文より窺えるところである。
ということは、確定審の基本構図は、被告人と警察官らのどちらが信用できるかというものであったと想像される。よく言われるのは、被告人と警察官が、共に、嘘をつく確率が高い属性であるということである。被告人は個性も千差万別であるから、一律に嘘つき扱いはどうかと思うが、警察官という属性が、刑事裁判において、偽証する確率を高い方へ振れさせることは異論は無いのではないか(私の経験だけでも、警察の偽証が認定されたことは4度や5度はある。因みに、判決結果を踏まえて偽証罪で告発状を送っても全く取り合われないのが現実である。)。
札幌の事件の確定審は、(百歩譲って)どちらも嘘をつく確率が高い属性の主張が対立し、警察側に軍配が上がった、と言うことになる。
このようにみると、更に進んで、裁判所は何故、確定審段階で警察側の証言を信用したのか、という疑問に行き当たる。結論から言えば誤判なわけで、(~多数の警察官証人の尋問が行われている以上は~争いのない事件であったわけでもないのだから)偽証を見抜けなかった理由が問われなければならないだろう。ましてやそれが、嘘をつく確率の高い属性の警察官証人を対象とするものであるから、尚更である。
しかし、現時点で、そのような検証作業を裁判所が行ったかは、不明である。不明であるが、検察庁等がこの種の検証作業結果を公表している(足利、氷見、志布志などの各事件)ことから考えれば、公表が無いと言うことは、検証作業も無いと言うことなのだろう。
分かりやすい対立構造の中で、嘘をつきやすい警察官証人の証言の信用性に依拠してしまった理由は、なんなのか。次に同じ事件が来たら、誤判は避けられるのか。そういったことは検証なしには学習されていかないと思う(裁判所に対し、その種の検証を求める意見書等はウェブ上の彼方此方で確認できる)。
誤判して上訴審で破棄されても、誤判した当事者裁判体は知りもしない可能性すらある。知ったとして、個人の資質で振り返るくらいはする裁判官もいるだろうが、残りの多数の裁判官は、内省もせず(と想像する)、検証委員会のようなところで質問攻めにされると言うこともない。結果、無反省の誤判が量産されていく。
誤判が確定すれば、裁判官の独立云々より原因究明の方が重要であろう。
裁判所は、潔く、次に繋げる対応を組織として行い、共有し、外部にも晒し、批判を仰ぐべきである。
(弁護士 金岡)