先日も本欄で取り上げた、傍聴席でのノートパソコン使用を巡る国賠が、東京新聞の「こちら特報部」欄で取り上げられた(本年5月27日、26面)。
メモを取る権利との調整がされていないことに向けられた私の問題意識が全て理解されたとは思わないが、裁判の公開と関連づけて関心を惹いたのなら有り難いことである。

記者の取材により、「認めるかは裁判長次第」という最高裁の回答が引き出されているのも興味深い。勿論、裁判所が恣意的な暴君であってはなるまい。複数の利益を十分に勘案した上での警察権行使だったのか、今度こそ(控訴審でこそ)問われよう。

報道記事では、この問題を梃子に、裁判の公開の在り方にも論が及んでいる。いわゆる代表撮影について、記者は「被告人がいない時だけ」と、中継が出来ないことを国際水準遅れと捉えているようである。
これに対する私の意見は、その点に同調したものではなく、代表撮影のような形式的な公開で口を拭うところに問題があるというものである。訴訟指揮ではっきり発声するとか、紛糾し出すと「休廷して別室へ」という密室主義から脱却するとか、審理の円滑を損なわないよう、しかし監視監督を甘んじて受けるという姿勢が本質だと思う。

(弁護士 金岡)