自由と正義の最新号(2019年5月号)では、裁判員裁判「10周年」の特集が組まれていた。論文は3本。内容的に手放しで礼賛というものではなかったので一安心。
ただ、本数が少ないこと、また、問題点の指摘はあれど、それをどう変えるかとか、変えたら何がどうなるという掘り下げがないので、どうしても薄味であった。

さて、本欄本年5月9日付け等で批判しているように、最も悪しきは審理計画の墨守である。必要な審理を幅広に追加していては計画審理が破綻し、法廷で心証を取るという制度の根幹が崩壊する。さりとて、極限的な場合しか審理計画を変更しないとなれば、それは最早、手続保障の名に値しない違憲の代物と化そう。
手続保障と、法廷でのみ心証を取ることとを比較すれば、当然、前者が優越するはずである。
そもそも、法廷でのみ心証を取ることの是非からして、問われるべきだろう。
被告人を含む当事者は、記録の細部にまで目配りし、緻密な論証をする、裁判所は時間を掛けて咀嚼し、利益原則に忠実な節度ある判断を行う・・刑事裁判はこうでなくてはならないだろう。法廷を活性化と言うが、法廷で見聞きした印象だけで人を縛り首にできる、というのは理解しがたい。
更に言えば、法廷での印象で決めてしまうとなると、伏し目がちに弱々しくしか話せず弁の立たない弁護人と、劇団仕込みの威風堂々たる弁護人とで、同じことを述べても結論が変わることになりかねないが、それで良いのだろうか。それを是とするなら、弁護団には劇団員を1人加えておかなければならなくなる。それは、非法律的、非理性的な営みであろう。

証拠裁判主義と、「法廷印象主義」とは、相容れないと思う。裁判員裁判に固有の長所があるとすら思われないが(前掲特集の高野論文で、検察の起訴控えがあって漸く無罪率が制度施行前程度に維持されている趣旨の数字が紹介されていたが、従来なら容易に有罪になる事案を厳選してもなお無罪率が従前程度になっているなら、それは固有の長所と言えようもので、今後も検証が必要だろう)、仮に固有の長所があるとしても、法廷印象主義の欠陥を受け入れてまでのものなのかは相当疑問だ。

それでも裁判員制度を正当化したいのであれば、少なくとも、被告人に選択権を与える必要があるだろう。審理計画の墨守を強いられる手続的欠陥を受け入れてでも、市民の良識とやらに自らの運命を委ねる判断をするかどうか。
利用率が、裁判員制度の欠陥を実証するのではないかと予想する(これでは陪審制度の二の舞になるので、当局は先ず、やりたがらないだろう。それだけで足下を見透かせる、と思う。)。

(弁護士 金岡)