少し前の話題。
とある厳しい接見禁止案件について、「これこれこういう条件で家族だけ解除を」というような職権発動の促しを申し立てたことがある。

これについて、裁判官から電話があり、「自分としては認めようと思うが、上で維持される自信がないので、もうちょっと条件を絞るのはどうか」というような提案を頂いた。
保釈の場面でもそうであるが、弁護人の見通しより少しだけ厳しめの見方をしている場合に、「こういう条件も付すのはどうか」等と自分の頭で考えようとする裁判官と、「それではダメだ」とばかりにばっさり切ってくる裁判官とがいるとすれば、やはり好ましいのは前者であろう。
人権制約は、必要最小限度でしか許容されない。より条件を付してでも人権制約を回避できるのであれば、そのような条件を現実に付せるか模索することが必要条件であり、模索もせずに人権制約を続けるのは愚物である。

この種の申立において、裁判官面談を求める・求めないについては、長らく結論を見ない議論がある。求めて損はないし、人間同士、色々と話せば分かることもあるだろうと思う一方で、いざ面談すると「何かあればお聞きします」しか言わない裁判官が圧倒的多数であるという現実に直面する(裁判所側の本音も「面談は大概、無駄」だろう)。
迂闊に提案すると肩入れしているようになり、中立性を損なうという危惧はあろうし、判検交流、とまでは言わなくても無罪回避のために裁判所が検察官に肩入れしているのではないかと疑いたくなる場面は今でもあるので、逆の場合まで考え出すと難しい問題には違いない。
比例原則や手続保障、検察官と被告人との力の格差といった基本から、軸足を間違えないようにすべき問題で、このような場面にこそ、裁判官としての資質、成長が問われると言えるかも知れない。

(弁護士 金岡)