知人より「先生の発言が妙な引用をされています」という通報を受けた。
「研修」という雑誌の第860号(2020年2月号)に掲載された、元検事長の肩書きを持つ酒井邦彦弁護士による「子ども虐待防止を巡る司法の試練と挑戦(1)」である(それにしても、前記知人は、このような雑誌まで目を通すとは尊敬すべき姿勢である)。
同論文は、「検察に偏ることなくより広い刑事司法という一段高い視座で関係機関との連携も視野に入れつつ司法が抱える課題やその解決策を論じたい」という崇高な出だしで始まり、SBS問題を取り上げて「医師と法律家の健全な役割分担」を論じている。
その上で、医学的知見に基づく事実認定の在り方を論じて曰く、「医学は、100%の正解がはじき出せる数学などの学問と異なり、あくまで可能性を論ずる科学ですので、そこを突いて、ほんのわずかでも「疑い」の可能性があるではないかと論難することは」不当であるとし、そこで、(怪しからん反対尋問技術の代表例の一つとして)私の以下の発言を槍玉に挙げている。
即ち、私がかねて季刊刑事弁護の座談会で、検察側の医学的立証に対し弁護人が協力医を擁して対抗すべきことを主張した下りで、「自分に有利な意見を言ってくる医者を持ち込んで検察立証を弾劾するのが得策です。わからなくすれば勝ちです。弁護人はそういうものです」と発言した(原典には当たっていないので引用の正確性は酒井氏に負うこととするが、それによれば季刊刑事弁護69号)ことを援用し、「裁判員を「わからなく」させて無罪を勝ち取ろうとするやり方は、裁判に対する国民の信頼を損ないかねないと思います。」と批判されているのである(なお、わざわざ「わからなくすれば勝ち」の部分に下線を引いておられた)。
元検事長から見て疎ましい反対尋問技術を駆使する一人に挙げて頂いたことは光栄であるが、残念ながら上記発言は反対尋問技術について言及したものではなく、弁護側の反証活動の在り方について論じたものであるので、適切な批判ではない。
ただ、それ以上に、酒井氏の御意見は致命的にも程がある誤謬であるので、ここで指摘しておこうと思う(それが表現の自由市場というものであろう)。
酒井氏が「医学は、100%の正解がはじき出せる数学などの学問と異なり、あくまで可能性を論ずる科学」というように、医学は可能性を論じる科学に「過ぎない」。このような限界があるのに、「科学」の要素を持つが故に、屡々、一人歩きし、その限界を超えた証明力の議論に誤用、悪用されることがある。
代表格は足利事件であろうが、近時ではSBSの三徴候説も挙げられよう。可能性を論じる科学に「過ぎない」限界を弁えて証明力を議論すべきであるのに、それを(主に弁護人が)怠った、或いはそれを(主に裁判所が)拒絶したばかりに、冤罪に陥る案件は未だ後を絶たない(近時でも、性犯罪の無罪判決に対し控訴した検察官が精神科医を証人に立てて被害者心理の立証を試みているものが報道されているが、傍目にも、それは医学の装いを持つが、限られた経験に基づく知見、一見解に過ぎず、真実と断じるには危うさを孕む筈だ)。
従って弁護人は、検察官が上記のような医学的立証を試みた場合には、常に懐疑的に、証明力を吟味する責務を負うのであるが、端的な方法論としては、同程度に証明力を有する反対の医学的知見を法廷に持ち込み、検察側の医学的知見が弁護人側の医学的知見による検証に耐え得るか、徹底した審理を求めることである。
上記座談会における私の発言は、このことを指摘したものである。
そして、両説の対立から、検察側の医学的知見が合理的疑いを超えて正しいと証明されなければ、その場合、医学的真実は少なくとも「分からなくなる」のであり、検察側の求める結論=有罪には辿り着かないことになるから、弁護人側の主張が通る。
もし弁護人が、このような端的な医学的検証を怠るならば、冤罪の歴史は今後も延々と繰り返されていくに相違ない。
以上に論じたように、同程度に証明力を有する反対の医学的知見を法廷に持ち込み、検察側の医学的知見が弁護人側の医学的知見による検証に耐え得るか、徹底した審理を求めることは、弁護人に求められる本質的な役割に従った弁護活動に他ならない。その結果、医学的真実が「分からなくなる」ことは、刑事司法が正しく機能した、ということを意味し、至当である。
医学の科学的限界を弁えている筈の酒井氏がどこで間違ったか、論文を拝読する限り、簡単に看破できる。
酒井氏は、「検察に偏ることなく」という論文の前提とは真逆に、また、医学の科学的限界を弁えているという言説とも真逆に、(検察側に資する)特定の医学的知見が正しいと信じ込んでいるのである。
特定の医学的知見を正しいと信じ込んでいる氏の立場からは、これに反するが故に正しくない弁護側の反証活動は反真実であり、反真実を持ち込んで「分からなくする」ことは裁判を誤らせる怪しからん手法だと言うことになる。しかし、何が正しいかが決まっていれば世話はない。我々は、何が正しいかが定まっていない領域で、特定の医学的知見が合理的疑いを超えて正しいと言えるかを議論しているのだ。
酒井氏は、自分が間違っているかも知れないという謙虚さをお持ちでないようだ(実に検察官らしい、と言えよう)。しかし、自分が間違っているかも知れないという謙虚さを持たず、(検察側が)正しいに決まっているのだという盲信に囚われた検察官が、冤罪を輩出してきた張本人だということを、学ばれるべきであろう(弁護士登録されているようだが、少なくともこの点を学習し終えるまでは刑事弁護には手を出されないよう祈念する)。
「研修」という名を冠した雑誌にしては残念な論文であるが、反面教師としては、その務めを果たせているのではなかろうか。
(弁護士 金岡)