人情味がないというよりは、最早、人間味がないという方が正しかろう。
久々に在特義務付け請求棄却の判決(角谷昌毅裁判長)を受けての、偽らざる感想である。

事案は、簡略化すれば、オーバーステイの妻、永住資格の夫、両名間に日本生まれ日本育ちの実子が2名おり、上の子は小学校に上がっているというものである。退去強制令書発付処分後、よそで取消訴訟を行っている間に子らが生まれ、結局敗訴確定、そこで義務付け訴訟に進んだ経過を辿っている。

今回取り上げる論点は、親の退去強制により親を取り上げられる、もしくは本邦での生活が不能になる子の、法的保護の在り方である。

まず、退去強制事由のある配偶者を選んだ他方配偶者をどこまで保護するかについては、退去強制事由があると承知で婚姻するのだから、その危険が現実化しても文句を言わせない、という類の判決が量産されている。人情味に乏しいとは思うし、全く賛成できないが、机の上で小役人が考える程度には成り立ち得る考えであることまでを強ち否定するものではない。
しかし、退去強制事由のある親を持って生まれた子の、児童の権利条約3条が保障する「最善の利益」に鑑みた時、上記の論は、子から親を取り上げる(親を退去強制させる)方向で成立するはずはないと考えていた。なんとなれば、子は親を選べず、文字通り「生まれる」のだから、たまたま退去強制事由のある親を持って生まれただけで、親から愛情を持って育まれる権利保障に劣るという事態は説明が付かないからである。

ところが名古屋地裁は、「原告と夫及び子らは本来であれば本邦に於いて家族として同居生活を継続することができない地位にある」として、あっさり、乗り越えてしまった。
たまたま退去強制事由のある親を持って生まれただけで、その子の「家族として同居生活を継続する」地位の保障が否定されるというのは、恐ろしい発想である。とりあえず「門地」による差別(憲法14条違反)と言って差し支えないだろう(なお、当該判決では、児童の権利条約は処分庁を具体的に羈束しないという(相変わらずの)おまけも付いている)。

「生まれる」子に、生まれながらの法的地位に差を設けてしまう、この発想は、最早、人間性に欠ける。人情味がないというより、人間味がない。
この15年程度の名古屋地裁行政事件集中部の在留案件の判断の推移はそれなりに把握しているつもりだが、ここまで劣化したのは初めてのことと思う(義務付け訴訟類型が適法に行えるという枠組み自体は堅持されているが、中身の人間性が失われては評価する気は起こらない)。

(弁護士 金岡)