本欄本年11月2日で、法廷通訳について言及したことで思い出したのが掲記の書籍である。裁判員裁判が始まってから、法廷通訳(ないし司法通訳)について言及された書籍が複数、出されたと認識しているが、一通り目を通した結果、制度としての整備状況は甚だ宜しくないとの経験的な認識を確認せざるを得なかった。
それはそれとして、掲記の書籍の一つの柱は、司法通訳に法律知識が必要だ、という命題である。102頁からの第Ⅳ章がそのままの副題を付されているし、(裁判所が用意している)「対訳集」では不十分だと示唆されていること(109頁)、日弁連の2013年の立法提案意見書において法律知識の必要性に殆ど言及されていないことが槍玉に挙げられていること(143頁)等から、筆者の立ち位置は明確である。
筆者は、次のようにもいう。
・「法律用語の意味するところを『説明する力』『解説する力』が司法通訳にとっては重要なのです」(19頁)
・「弁護士の発語を『解説』する通訳が必要となるのです」(59頁)
しかし、刑事行政を含め要通訳事件を相当数、こなしてきている弁護士の立場からいえば、「勝手に解説を始める」通訳人は禁忌である。私の発言を翻訳し、依頼者が何かを言う、それをそのまま訳すのではなく、通訳人が依頼者になにやら問いかけ、会話が始まることは、少しであれば様子を見るが、二度三度と会話が往復し出すと、流石に止める。場合により通訳人が勝手に答えてしまうこともあるし、それでは困る。他方、依頼者の応答が「分かっていない」ものであっても、一先ず此方に投げ返してもらえれば、必要な解説は此方で付すことが出来る。となると、通訳に解説をして貰う必要は、先ず無いはずだ。
例えば「起訴されました」と弁護士が述べる。通訳人が対訳集の程度で取りあえず(プロセキュートでも、インダイトでも、ゴートゥートライアルでも)訳す。依頼者が何か答える。その応答が「どうやったら出られるんだ」というものなら、裁判の流れと保釈の話をすることになるだろうし、「そのまま帰れるのか」というものなら、「起訴」の意味が正しく伝わっていなかったことが分かるので説明の仕方を変える・・というように、あくまで、弁護士と依頼者との意思疎通の問題に帰着されるべきであって、つまり意思疎通できていない実情も含めての通訳が必要なのであり、ここに通訳の「解説」という、ぬえ的なものを介在させるのは却って迷惑だ。
考えてみれば、我々の依頼者は基本的に法律に疎い。
法律に疎い日本人依頼者の法律相談で、弁護士が、法律解説要員という通訳を必要とするだろうか。例えば学部生程度~極端な話、司法修習生程度の知識があるとしても~に法律相談を「解説」して貰うことなど、考えられない。弁護士に完全に互角の通訳ならまだしも、それに及ばないだろう通訳に、法律の解説など、して貰う余地はないことは、これで論証十分だろう。日本人依頼者に伝わるように自ら解説できる(べき)我々は、我々の責任において要通訳依頼者にも解説をするまでである。
通訳人に求めるのは、漏れなく丁寧に通訳し、意思疎通に支障が生じているなら生じていることが我々に伝わるように誠実に通訳すること、これに尽きよう。
時には依頼者が「起訴って何ですか」と(原語で)聞き返しているかも知れない。その時に通訳が勝手に解説するのではなく(或いは先んじて「起訴、つまりね・・・」と解説してしまうのではなく)、不用意にも「起訴」という専門用語を用いた我々に対し、その問いを投げ返してくれれば良いだけのことである。
著者の職務熱心は伝わるが、その方向は、私にとっては通訳人の仕事を履き違えているように映った。日本の法廷通訳(司法通訳)制度について立ち後れがあることは事実だし、今からでも、資格化するかは別論として全国的な基準を策定するべきであるが(本書で紹介されていた米国連邦法廷通訳人法やカリフォルニア州の法廷通訳資格認定試験は、調査対象として価値があるだろう)、目指す方向性は相容れず、前途多難なようである。
(弁護士 金岡)